鷗亭生
東洋畫方面發現了可與審查員之作媲美的村上英夫君的作品,但在西洋畫方面卻無「那樣」的作品。審查員以外的畫作,水準整個下滑,雖然這樣說會很失禮,但所有作品都一樣糟糕,只能例舉其中幾件在技巧上或在事物的觀察上較為優秀之作,例如陳植棋君的〈海邊〉和陳澄波君的〈帝室博物館〉。〈海邊〉可以看到後期印象派的影響,追求立體或動態的效果,雖是小品,卻能在畫面上表現出海邊的遼闊氛圍,畫得很不錯。陳澄波君的作品,很能掌握東京上野公園內的博物館旁的景趣,其畫風感覺似乎有以某人為範本(model),但作品感覺還不錯,畫面中瀰漫著的浪漫氛圍,十分迷人。業餘者(amateur)出品之作,彷彿串通好似地都出品「靜物」,但其實這並不令人訝異。若將這些靜物畫瀏覽一遍之後再加以比較的話,會浮現有趣的感想。「那」就是,許多〈靜物〉中所描繪的靜物,似乎每個都是各自獨立的存在,彼此之間沒有脈絡或統一感,你左我右的,五個壺或水果,各自形成一幅畫,欠缺五個靜物融合為一幅畫的一致性。古川義光君的〈nature morte(靜物)〉在這點上稍微成功了一點,但畫得有點過頭,結果反而扼殺了藝術氛圍。簡言之,這關係到畫家的觀察物象的態度或創作上的準備等等問題,在創作之際,應多加用心才是。總之,第一回臺展頂多只能說是對臺灣而言比較多人參觀的展覽會,但實際上,評其為少數美術家參與的素人畫家的餘技(業餘嗜好)展覽會,或許才更合適。不過,今年的素人畫家,待明年的臺展時,或許已經成為了傑出的專家也不一定,這便是剛誕生的臺展今後將逐漸成長茁壯的有趣之處。而其健全的發育,首先要仰賴島內美術家的精進狀況,故在此希望能在用心及構思上,再多加數倍的努力。(完)
臺展評 西洋画部(四)
鷗亭生
東洋画の方には審査員の作に拮抗する村上英夫君の作品を発見したが、西洋画の方にはソレがない、審査員以外の作になるとガタ落ちで甚だ礼を失する申し状だがドン栗の背競べである、唯だ其の中にあつて多少技巧上や物の観方の上で優れてゐる作として挙げたいのは陳植棋君の『海辺』及び陳澄波君の帝室博物館とである海辺は後期印象派の影響を思はせる作で、立体的若くは動的ならんとするのが狙ひ所である、小品乍ら如何にも海辺らしい広闊な気分のする絵で割合によく画きこなしてゐる、陳澄波君の作は、東京上野公園の博物館横の景趣を掴んだもので、モデルになつてゐる何者かの画風のある事を想はせはするが、兎に角佳い感じのする作で、画面に浮動するロマンチツクな気分には可なりに魅せられる、アマチユア出品の作品が申合せてゐる様に『静物』であるのは別に不思議はないが、是等の静物を一覧して比較して見ると可なり面白い感想が浮んで来る、ソレは沢山な『静物』中に画かれてある個々の静物が、皆それぞれ思ひ思ひに個々的に画かれて其の各箇の静物の間に脈絡統一の無いことだ、お前は左、わたしは右と言つた風に五つの壺や菓物は五つ銘々の絵となつて五箇の静物の渾然たる絵としての一致境がない古川義光君の『ナチユールモルト』は其の点で稍々成功してゐるやうだが、余りに画き過ぎてゐて却て芸術気分を殺ぐ結果を見てゐる、要するに此の事は画家の観象的態度とか創作上の用意とかいふ問題にも関連してゐる事であるから製作に当つては相当工夫して欲しいと思ふ、兎に角第一回臺展は臺灣としては割合に見られる展覧会であるといふ程度で実際は少数美術家を交へた素人画家の余技展覧会といふのが適評かも知れない、けれども今年の素人画家は最う来年の臺展では立派な専門家となつてゐるかも知れない、そこに生れた許りの臺展の育つて行く面白さがある、その健全な発育は一に島内美術家の精進如何によることであるから苦心と工夫とに更に数段の努力を望みたい(完)
—原載《臺灣日日新報》,1927-11-02(日刊5版)
(辨識、翻譯/李淑珠)