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臺展共兩回特選

今秋擬出品帝展

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女子美術學校畢業的陳進女士

關於她――陳進女士,臺北第三高等女學校(今中山女中)的小野正雄校長的談話如下:

「不管怎麼說,陳進小姐都是我們學校培育出來的最偉大的天才女藝術家,尤其是她在東洋畫方面的天賦和顯著的進步著實令人驚嘆。而且,不管是她的外表,還是談吐,都已經是純内地(日本)式,這不是很棒嗎?」

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陳女士今年正是二十四歳的花樣年華,新竹郡香山牛埔庄的出身,大正十四年(1925)三月自臺北第三高女以優異的成績畢業,當她還在該校就讀時,經圖畫教師鄉原古統畫伯的薫陶,便已展現出非凡的才華。然而,直到同年四月進入東京的女子美術學校就讀之後,她才完全展現出其洋溢的天才,因為在女子美術學校的四年學習生活――在此期間,她才得以深入汲取了東洋畫的精隨。

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在其出生的故鄉臺灣畫壇,她的作品首次曝光,是在昭和二年(1927)十月下旬第一回臺灣美術展舉辦之時,當時她還是女子美術學校三年級的學生,年僅18歲,以《姿》、《罌粟花》、《朝譯注(1)》的三件東洋畫順利入選,在本島畫壇掀起了巨大漣漪。據說,其作品的美麗色調、大膽筆觸及巧妙構圖,都令臺展審查員驚嘆不已,也因此,這三件作品,《姿》得到了教育會、《罌粟花》得到了新竹州廳、《朝》則得到了當時的文教局長石黑英彥氏的購買。

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此外,入選於昭和三年(1928)十月舉辦的第二回臺展的《野分》和《蜜柑》,這兩件作品是在尺寸上壓倒當時入選臺展的其他東洋畫的大幅巨作,而且《野分》還榮獲特選,讓畫壇的前輩們都大吃了一驚。接著昭和四年(1929)十月的第三回臺展,入選的《秋聲》和《庭園暮色》兩件作品中,《秋聲》再次奪得了特選的榮譽;其豐富的才能和成熟度,越來越得到了發揮。

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陳進女士去年四月以優異的成績自女子美術學校畢業後,面對結婚、就職或繼續鑽研畫藝等問題,似乎曾困擾不已,但始終期望自己有所成就的陳女士,最後決定隻身留在東京,目前正在帝國美術協會會員鏑木清方畫伯的指導下,致力於大型作品的製作,意欲參加今年十月的帝展。

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出生在新竹州的一個寒村的女流天才畫家,即將在中央(日本)的主舞台上華麗亮相。我們衷心祝福她的未來,願她畫業有成,讓臺灣文化的光輝更加璀璨耀眼。(照片是內地女學生穿扮的陳進女士)


臺灣文化を彩る 本島人女性(五) 新竹が生んだ 女流天才畫家

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臺展に二回共特選

今秋は帝展に出品

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女子美術出の陳氏進女史

臺北第三高女の小野校長は彼の女――陳氏進女史に就いて、次の如く言つてゐる。

『陳氏進さんは何んと云つても本校が生んだ最大の天才女流美術家だよ、飛切東洋画に於けるその才能と、進歩の著しい事は実に驚くべきものがある。更に彼女は、その容姿から、その言葉から、すつかり純内地式になり切つてゐるから素晴しいぢやないか』と。

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彼女は当年取つて二十四歳の花盛り新竹郡香山牛埔庄の産で大正十四年三月、臺北第三高女を抜群の成績で卒業したが同校在学中から図画教師郷原古統画伯の薫陶を受け、早くもその非凡な才気を見せてゐた、しかし彼女が思ふ存分にその溢ふるゝ天才を発揮したのは同年四月東京女子美術に入学してからの事である。女子美術四箇年の研究生活――その間に彼の女は東洋画の真髄に深く食ひ入ることが出来たのである。

生みの故郷である臺灣画壇に彼の女の作品が紹介されたのは昭和二年十月下旬第一回臺灣美術展が開かれた時であつた。当時彼女は女子美術三年在学中で、まだ廿一才であつたが東洋画『姿』『けし』『夏の朝』の三点が美事入選して本島画壇に一つの大き波紋を投じたのであつた。その色調の妙と、大胆な運筆と、巧な構図の取方には、臺展審査員諸氏も感嘆の舌を捲いたと云ふ。□つてその三つの作品中『姿』は教育会に『けし』は新竹州庁に、『夏の朝』は当時の文教局長石黒氏に依つて買ひ取られた程である。

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更に昭和三年十月に開かれた第二回臺展に入選した『野分』と『蜜柑』の二点は、当時臺展に入選した他の東洋画を圧する程の大作であり、而も『野分』は特選に入り斯界の先輩達をアッと驚かせたものである。越えて昭和四年十月の第三回臺展に入選した『秋声』『たそがれの庭』二点の中『秋声』は又も特選の栄誉を奪ひ、益々その豊かな才分と円熟味を発揮して来た。

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進女史は昨年四月、抜群の成績で女子美術を卒業後、結婚、就職、研究継続等の問題で随分頭を悩ましたらしいが飽く迄も大成を期してゐる女史は敢然独身で東京に踏み留まる事を決意し目下帝国美術協会員鏑木清方画伯の下で来る十月の帝展を目指して、大作の製作に余念がないと云ふ。

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新竹州の一寒村が生んだ女流天才画家は、今や中央の本舞台に華々しく乗り出さうとしてゐる。吾等は、我が臺灣文化の輝きを更に一層顕著ならしむ為にも、彼の女の前途を祝福し、その大成を望みたい。(写真は内地女学生風に納つた陳氏進女史)

原載《臺灣日日新報》,1930-06-04 (夕刊2版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯注(1) 根據臺展圖錄,該作品名稱為「朝」,原文「夏の朝」,應為誤植。