N生(譯注1)記
(一)
在萬眾期待之下,第四回臺展即將於(十月)二十四日舉辦招待日、二十五日起一般公開展出。臺展今後將朝哪個方向前進呢?
◇…臺展 所呈現出來的臺灣畫壇現況真的是與時俱進的嗎?還是藝術家就如一般所言總是走在時代的前面,所以遙遙地領先於一九三〇年呢?或正陷入難以挽救的谷底,停滯不前呢?或是在「舒適的逃避」中來回沉睡著,就像那些自以為可以超越時代、躲在浮游層的藝術家經常陷入的困境?ーー就像現在的日本畫家大多如此一様……。此外,以前的臺展
◇…作品 常被指責沒有表現出地方色(local color),在這次的展覽會又會有有怎樣的表現?等等,都是臺展舉辦之際最令人感興趣的問題。
〇
第一,臺展是否與時俱進?是否有如實表現去臺展看展的大多數人(那些住在大樓(building)裡與機械共同生活的人們)的心聲或時代的艱苦?或有顯示出想要表現這些題材的努力嗎?當我們注視著這些掛在牆上的東洋畫和西洋畫時,很遺憾地必須說:「否!」,就像
◇…現代 日本畫壇的許多人一樣,這些作品沒有任何努力成長的痕跡,只有技巧上的進步,甚至看不到有在嘗試呼吸新時代的空氣,大多數人都繼續在「舒適的逃避」。第二是這次的臺展如何表現地方獨特色彩的Local Color問題。以前的入選作品都遭受沒有表現出本島(臺灣)色彩(Color)的
◇…指責 ,然而,此點尚有值得商榷的餘地。臺灣已被認可為「世界的臺灣」,思想和文物也在平均水準(level)之上,我們的生活和意識都處於building與機械、帝國主義與無產階級(proletaria)陣營交錯並存之中。
Local Color唯有在我們先意識到與現實相連結的時代的一般性,再下降至某種特殊性時,才得以被生動地表現出來。況且,若連這種時代的一般性都意識不到,怎麼可能將Local Color生動地表現出來呢?不考慮這些前提,而一味地指責沒有表現出Local Color,就等於只是在要求畫家們:只要描繪紅頭嶼(蘭嶼)的人形(人偶)即可。
臺展を觀る
N生記
(一)
多くの期待のうちに第四回臺展も愈々二十四日を招待日、二十五日から公開される事になつた、臺展が如何なる方向に進みつゝあるか
◇…臺展 に表現される臺灣の現画壇は果して時代と共に進んでゐるであらうか、それとも芸術家は時代に先行すると云はれる如く一九三〇年を遥に追ひ越してゐるであらうか、或は救ひ難き沈滞の底に沈んでゐるであらうか、それとも時代を超え得ると考へる浮游層の芸術家が屡々陥る様に、『心地よき逃避』のうちに前後なくまどろみ続けてゐるだらうかーー現在の日本画家の多くがさうである様に……又従来の臺展
◇…作品 にローカル・カラーが出て居ないと云はれて来たが今回の展覧会ではどう云ふ風に表はされて居るだらうか等々の事は臺展の開催に際して最も興味深い事柄である
〇
第一に臺展は時代と共に歩んでゐるか?、臺展見物に来る多くの人人(それはビルデングの中に生活し機械と共に生活する人々)の心を、時代苦を如実に表現してゐるだらうか、表現しやうとする努力を示してゐるだらうか、陳列された東洋画、西洋画を見渡した時、残念乍ら『否!』と云はねばならない
◇…現代 日本画壇の大勢の様に努力成長の跡は技巧にのみ少くとも新時代の空気を吸はうとしてゐる事すら見られない、大勢は『心理よき逃避の夢』を続けてゐる、第二に今回の臺展にはローカル・カラーが如何に表現されてゐるであらうか、と云ふローカル・カラーの問題である、従来の作品には本島のカラーが出てゐないと
◇…非難 される、然し此処には一考の余地がある臺灣には既に世界の臺灣として認められた、思想文物は既に平均レベルの上にある、我々の生活と意識はビルデングと機械、帝国主義とプロの陣営の交錯の中に立つてゐる筈だ、
ローカル・カラーは我々が現実にかゝる一般的時代を意識し次いで特種に下降した時に初て生々と表現し得る、然もかゝる一般的時代を意識せずして果して生々とローカル・カラーを表現し得るであらうか、斯る事を考へずに単にローカル・カラーが出ないと責めるのは画家達に紅頭嶼人形だけつくつて居ればいゝと強る事に外ならない
─原載《臺灣日日新報》,1930-10-25 (日刊8版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注(1) 「N生」可能是「野村幸一」,《臺灣日日新報》的漫畫記者。