N生記
(三)
西洋畫第一室的鹽月審査員之作《馬西多巴翁社的姑娘們》,預計會受到不少的批評。根據鹽月氏自己的說法,此畫是現代社會被色情(erotic)和怪誕(grotesque)的流行汙染之際,藉由描寫蕃人少女來表現其心之所嚮,即,純潔靜謐的太古的自由。此畫的畫布(canvas)先以
◇…胡粉 塗佈,將畫面如同鏡面般打底,而描繪在上面的畫乍看雖有些草率,但當觀者鑑賞時,應立即能感受到鹽月氏的上述心思,而且還能看出此畫已從這樣的立意發展成一件至高無上的藝術作品。即便如此,應該還是有許多人站在此畫之前,只感覺到理解的困難,因為此畫所蘊含的情感,並非是一般性的,而是來自鹽月氏本身的主觀,立足在如夢般的憧憬上。然而,太古並不像鹽月氏所幻想的,是個美麗的世界,而現代也並非醜陋的世界。鹽月氏不去探究現代醜陋的原因,過大評價現代之醜,又過小
◇…評價 古代之醜,只一味地膨脹對古代的美麗幻想,將此美麗憧憬表現在《馬西多巴翁社的姑娘們》上,亦即,此畫表現的是鹽月氏自己的恣意的幻想——(而人們較能理解現實中的美以及對現實或對未來的美化),因此,鹽月氏之作缺乏打動(appeal)現代人內心的魅力,這便是為何此畫會令人感到難以理解甚至誤解之處。企圖追隨鹽月氏腳步的有任瑞堯氏的《朝》。這是一幅具有高更(Gauguin)風格的畫作,描寫腰掛蕃刀的半裸男子及蕃山的清晨。任氏雖有極遠大的
◇…意圖 ,可惜此畫仍舊是其失敗之作。夏目漱石曾云:「鼓聲因不合拍而動人」,漱石其實是把不合拍的失誤也算在表演之內,但任氏的這幅畫卻只是因為不用心才不合拍,不用心是此作失敗的最大原因,再者是任氏雖步鹽月氏的後塵,卻缺乏鹽月氏的品味與精神。千田正弘氏的《賭博》是一幅令人嚇一跳的畫。千田氏應該是在創作時不斷地喃喃自問:「還不夠嗎?這樣呢?」,最後把在賭博的
◇…人們 的臉和衣服塗了一遍又一遍,結果是像岩石一般僵硬。藝術作品的誕生,經過藝術感受的洗禮是其必要條件,若將現實只是作為現實投射在畫布上,是不可能被接受為藝術作品的。
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N生記
(三)
西洋画第一室の塩月審査員の作『マシトバオンの娘ら』に就ては多くの批評が予期される、塩月氏自身の語る所に依れば、此の作は現在の社会がエロとグロの流行に汚されてゐる時、静に穢れなき朗かな大古の自由に憧憬れる心を、蕃人の娘の姿をかりて表現したものであると云ふ、此の
◇…胡粉 を鏡の様にカンバスに塗つてその上に一見無雑作に描かれた絵を見る時観者は直に塩月氏のこの心を感ずる、加之この作が斯る立脚地から高き芸術的作品にまで達してゐる事をも観取する事が出来る、然し多くの人々は此の絵の前に立つて不可解な感じのみを受取るであらう、その故は此の絵に盛られた感じは決して一般的のものではなく塩月氏自身の主観、夢の様な憧憬に立脚してゐるからである、塩月氏の空想する如く大古は美しい世界ではなく現在は醜い世界ではない、塩月氏は現在の醜の原因を探究しやうとはせず、現在の醜を過大に
◇…評価 し古代の醜を過小に評価して古代への美しき空想を漲らせる、此の美しき憧憬を氏は『マシトバオンの娘ら』に表現した、即ち氏自身の勝手な空想をーー(人々は多く現実にある美的なものと現実の、未来への美化をより容易に理解する)斯くて塩月氏の作現在の人々にアツピールする力に乏しい、こゝに此の作に対する不可解と誤解とが生ずるのであらう、塩月氏の歩いた道を歩かうとしてゐるものに任瑞堯氏の『朝』がある蕃刀を腰々にした半裸の人と蕃山の朝を描いたゴーガンばりのものである、氏の大きな
◇…意図 にも関らず此れも氏の失敗の作であらう漱石は「鼓の音は間が抜けてゐるからいい」と云つた、然し鼓の場合には間の抜けた所も勘定に入れてある然し此の絵は全く不用意に間が抜けてゐる、不用意は此の作の失敗の第一原因になつてゐる、加此の塩月氏の後を追ひ乍ら塩月氏の気品と元気に乏しい、千田正弘氏の『賭博』は人をおどかす様な絵である、千田氏はこれでもか、これでもかと云つて遂う遂う賭博する
◇…人々 の顔と着物を岩の様に塗りこくつてしまつた、芸術的作品となる為には芸術的感じを通して生まれたものでなければならない、現実を現実としてカンパスの上に投げ出しても芸術作品とは受け取れない
─原載《臺灣日日新報》,1930-10-27 (日刊6版)
(辨識、翻譯/李淑珠)