一

 在文化領域仍有一絲昏暗感的臺灣,由臺灣教育會主辦的所謂的臺展,作為例年活動於去年秋天照常舉辦,而且這個展覽宛如一座燈塔,為本島(臺灣)文化放射出一束燦爛的光芒,實在是可喜可賀,將之推崇為臺灣文化運動的一大成功也不為過。只是臺展既然已舉辦過五回,其輪廓已大致明顯,因此也有必要針對此展的實體進行各種改善。吾人誠摯地希望臺灣教育會當局能針對這一點有充分的認識,並能致力於給予這種好不容易冒出新芽的文化運動良好的指導與刺激。

   二

  例如第六回的臺展,查看一下決定審査員名單的遴選情況,便感覺有為山九仭、功虧一簣之處,在臺灣的美術思想的誘導上留下了令人遺憾之點。的確,在審査員的遴選上需要非常謹慎與再三的斟酌,但若只是幾次得到臺展的特選,便使之一躍成為了審査員,這真的是最佳的遴選辦法嗎?又或是將至今連帝展的關卡一次都未突破的妙齢女性,一舉加入臺展審査員之列等等,這樣的做法或許可以說很果斷,但之後會給全島的臺展出品者怎樣的印象或感想,當局在遴選審査員之際,也應當予以考慮。況且賦予審査員的頭銜對於有繪畫天份的女性真的是一種獎勵嗎?或其實結果反而只是一種溺愛(spoil)?這些都應該要深思才好。

   三

  給予優秀的會員一些優遇固然立意良善,但不可能全部都賜予審査員的光環,不如設置「臺展會員制」作為優遇方案,讓傑出的作家成為臺展會員,同時也成為臺展的中堅份子,未來例如臺展審査員之類的,部分名單也可由這些會員直接互選產生,像這樣一步步指導臺展走向自治化才對吧!臺展舉辦的目的到底是從年輕畫家之中選拔出審査員,以便令業餘(amateur)畫家們為之感動、誘使素人畫家相繼而出,意圖為畫材店或裝裱店的生意帶來繁榮呢?還是這種向經濟看齊的時代在今日已經過時,反而是傾注全力發展優秀的鄉土藝術,促使臺展陳列的作品提升作畫水準,進而因此得以提升本島一般民眾的審美意識以及美術鑑賞的眼光呢?這個根本目標,臺展當局尤其必須加以思考。吾人雖然指出了在審査員的選定上有過於提拔新進之嫌,但本意絕對不是在指責臺展當局,只是希望提醒臺展當局,臺展作為本島具有影響力的文化運動,不宜忘卻其目標與使命,對臺展的指導也不要過頭才好。


文化運動としての臺展 其根本目標を 忘れたくない

   一

文化的に尚ほ暗い感じの伴ふ臺灣に、臺灣教育会が主催する臺展なるものを昨秋恒例として開き、之が一種の塔臺となつて本島文化の上に輝かしい光を放つやうになつたことは誠に喜ばしいところであつて、臺灣に於ける文化運動の一成功として推賞するに充分である。唯だ臺展も既に五回を重ね、其の輪郭も大体にはつきりして来たので此の実体に即する各種の改善が必要とされて来てゐる。吾人は、臺灣教育会当局が此の点につき充分の認識を持ち、折角芽ばえゆく此の種文化運動に善い指導と刺戟とを与ふべく専念するやう望まねばならぬ。

   二

 例へば第六回の臺展に当つて決定を見た審査員の銓衡振りなどを見るに聊か九仭の功を一簣に欠いた様な処もあり、臺灣に於ける美術思想の誘導上遺憾なる点なしとしない、固より其の銓衡に就ては多大の注意と考慮とが払はれてゐる事に認められるが、数回臺展の特選に入つたが故に一躍して之を審査員としたなどは果して最善の方法として首肯できるや否、まだ帝展の関門さへ通るに至らない妙齢の女性などを一挙にして臺展審査員の列に加へたといふことなども果断を言へば果断かも知れぬが、之が全島の臺展出品者に如何なる印象や感銘を与へるか等も審査員銓衡の□に当る方面では当然考慮されねばならなかつた事と思ふ。且つ斯ういふ事が天分のある女性を果して奨励する方法になるか或は案外却てスポイルする結果とならぬか等も考へて見ねばならぬことだらう。

   三

 優秀な会員を優遇するは宜しい然し之を皆審査員に祭り上げる訳にもゆくまい、寧ろ其の優遇方法としては臺展会員制を設け立派な作家は臺展会員として之を臺展の中堅分子とし、将来臺展審査員の如きも一部は右の会員の互選に任する位に自治的に指導してゆくべきではないか、臺展は、若い画家の中から審査員等を抜く事に依てアマチユア画家の間に感動を与へ、素人画家の続出を誘致して絵具屋や額縁屋の繁栄策を来すことが目的なのか、或は然ういふ時代は既に過ぎて来た今日としては寧しろ優秀なる郷土芸術の発達に全力を注ぎ、臺展陳列の作品を質的に向上せしめ依て以て本島民一般の美意識及び美術鑑賞眼を向上せしめるにあるか、臺展当局としては特に此の根本を考慮せねばならぬと思ふ、吾人は、審査員の選定が余りに新進抜擢に過ぎた傾きある事を指摘し臺展当局を責めるのが決して本意ではない、要は本島に於ける有力なる文化運動たる臺展の目標と使命とを忘るる事なく其の指導を過らぬやう希望するに過ぎない。

原載《臺灣日日新報》,1932-07-20 (日刊2版)

辨識、翻譯/李淑珠