鷗亭生(譯注1)
臺展的東洋畫每年都有穩健的發展,實在令人感到欣慰,尤其是本島(臺灣)人畫家進步之神速,是臺展東洋畫部不可忽視的特色之一。只是今年的會場在臺北師範學校(譯注2)的教室,狹小的展示空間卻陳列著大幅尺寸的畫作,必須仰著頭才能觀賞,這不僅造成觀賞上的不便,作品也因此而得不到適當的展示,更畫家感到扼腕,希望要儘快設立一個常設的繪畫館之類的展示空間才好,但因為臺北市公會堂蓋好後,似乎也是一個合適的展覽會場,所以只好等「它」竣工了。
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東洋畫巡視一遍之後的感想是,直到今年的臺展,才總算有像在觀賞距今已十四、五年以前的文展(譯注3)的感覺。尤其是觀賞富田彌太郎君的《飛泉震撼》和廖立芳君的《遊鯉》等作品時,這種感覺特別強烈。總之,作為臺灣的新藝術的東洋畫,能發展到如此進步的境地,實在是一個奇蹟,也堪稱臺展本身的一大功績。此外,臺展最可貴之處並非在於誰都可以輕易上手的這種單純的東洋畫,而是在於具有濃厚的臺灣鄉土色(譯注4)的諸多作品成為了其特色。洋畫(西洋畫)在這一點上並未有明顯的表現,但在臺展的東洋畫,所謂的臺灣色的表現非常醒目,而這也成為了其一大特色。這棵珍貴的幼苗有使之徹底成長茁壯的必要,為「此」,臺展當局和社會大眾都應具備熱誠,以後援者(patoron)自居,善盡保護與引導之責。
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結城素明審査員的《鵝鑾鼻》,一反平素的纖細且一絲不苟的用筆,是一幅企圖以没骨描法來表現新南畫境界的作品。海的顏色、天空的氛圍、前景的簡單俐落的處理方式等等,的確有其老練之處,但因為採用没骨,看起來有點像洋畫(油畫),卻沒有洋畫的那種尖銳,令人有一些「美中」不足之感。然而,這樣的表現在此畫家的作品之中是少數,應該會得到後世的珍重吧!
臺展の印象(五) ──東洋畫の進步と特色──
鷗亭生
臺展の東洋画も年一年と温健な発達を遂げてゆくことは誠に喜ばしく嬉しい次第で殊に本島人画家がグングンと伸びて行くことは臺展東洋画部の一つの特色として見のがせない所である。唯会場が師範学校の教室であり部室が小さく狭いのに大きな作が陳列され仰いで観なくてならぬ様で見にくいばかりか作品も其の為めはえず画家に取つても気の毒な感じがする速かに常設の絵画館でも欲しいものだが、然し臺北市公会堂が出来ると恰好な展覧会場にもなるさうでソレを待つ外はない
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東洋画を一べつしての感じは、今年の臺展くらゐになつて初めて今から十四、五年前の文展でも見る様な気が漸くして来たといふ事だ殊に富田彌太郎君の『飛泉震撼』や廖立芳君の『遊鯉』などを見ては特にさういふ感じがする。兎に角臺灣の新らしい芸術である東洋画が茲まで進境を見せ発展を遂げて来たといふのは実に奇跡的なことで臺展そのものの大きな功績と申すべきである。それから臺展の貴いところは誰でも画くといふ単なる東洋画のみでなく臺灣らしい郷土色の色濃くついてゐる諸作が其の特色になつてゐることだ、洋画には此の点が充分はつきりしてゐないが臺展の東洋画においては臺灣色なるものが実にまざまざと際立つてゐて之が大きな特色をなしてゐるのである。この貴い芽は何処までも育てて伸ばして行く必要があり、ソレだけ臺展当局も世間も熱を以て自らパトロンになつた位で保護し導いて行くことを心掛ねばならぬだらう
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結城素明審査員の『ガランビー』は平素の繊細な克明な筆をガラリと変へて没骨描法による新南画の境地を狙つて画きあげてある海の色、空の気分、前景のあつさりした扱ひ方など流石に老練を思はすこと勿論だが没骨だけに洋画まがひに見られ而も洋画ほどの尖さなく幾分モノ足らなさを感ぜしめる。然し此の画家の作としては珍しいものとして後世に珍重されることだらう
—原載《臺灣日日新報》,1932-11-02(日刊6版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注1. 「鷗亭生」與「鷗汀生」為《臺灣日日新報》主筆大澤貞吉(1923年入社擔任副主筆,1931年昇任主筆)之常用筆名,「鷗汀」為其號。
譯注2. 原臺灣總督府國語學校(1896年設立)於1899年改名為臺北師範學校,1927年分割為臺北第一師範學校(今臺北市立大學)及臺北第二師範學校(今國立臺北教育大學)。
譯注3. 全稱為「文部省美術展覽會」,1907年由文部省主辦,從此開啟了日本官展的歷史;1919年改組為由帝國美術院主辦的「帝國美術展覽會」(帝展)。
譯注4. 或下文的「臺灣色」,均為臺灣的「地方色」之意,「地方色」亦使用片假名「ロカールカラー (local color)」,為臺展提倡的概念之一,常見題材包括熱帶風景、香蕉樹、廟宇飛簷、水牛、臺灣服、原住民等等。