臺展的出品畫搬入時間已於(十月)十七日截止,並於十八日和十九日的兩天,東洋畫在第一師範學校(譯注1)、西洋畫在教育會館(今二二八國家紀念館)分別進入審査階段。

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第一師範學校周遭以柵欄圍住,隔絕工作人員與外界的接觸,十八日,結城素明、鄉原古統、陳進的三位審査員從早上開始以緊繃的表情將出品畫一幅接一幅地予以仔細檢視。今年的出品畫中有寄自法國的那須雅城氏之作,臺展動輒被輕視,卻有來自遙遠法國的出品,事務官也表示非常高興。

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教育會館二樓的會場,從十點半開始,在安武(直夫)文教局長的審查前視察之後,和田三造、鹽月善吉(桃甫)、廖繼春等審査員便將會場封鎖並進行審査。今年來自中南部地區的出品,似乎也佔多數。(照片:上為西洋畫的審査、下為東洋畫的審査)


けふから 臺展の審查 一師と敎育會館で

臺展の出品搬入は十七日をもつて締切り、十八、九の両日東洋画は第一師範学校で、西洋画は教育会館に於て夫々審査される事となつた

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第一師範学校では隣りに垣をして係員の外の出入を禁じ、十八日早朝より結城素明、郷原古統、陳氏進の審査員が出品の一つ一つを注意深く緊張した面持ちで見てゐる、本年度に出品された内フランスから送られた那須雅城氏の作がある兎角軽んぜられがちな臺展に遠いフランスからの出品で係官も喜んで居る

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教育会館では十時半より二階会場にて安武文教局長下見の後、和田三造、塩月善吉、廖継春氏等の審査員が会場を締切つて審査してゐるが、本年は中南部方面の出品も多数ある模様である(写真上は洋画の審査、下は東洋画の審査)

—原載《臺灣日日新報》,1932-10-19(夕刊2版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯注1. 原臺灣總督府國語學校(1896年設立)於1899年改名為臺北師範學校,1927年分割為臺北第一師範學校(今臺北市立大學)及臺北第二師範學校(今國立臺北教育大學)。