二科會友、新美術家協會員 栗原信

在巴黎(Paris)的現今畫壇可看到

東洋畫的 顯著影響,但卻未真正觸及到東洋畫的特殊性。前年在落選者沙龍(Salon des refusés)( 譯注1)之一室聚集的法國(France)現代批評家們,剛好將其議論的焦點轉到了東洋藝術:「我們在二次大戰期間失去了許多的天才畫家,對於能否發掘出繼承馬諦斯(Henri Matisse)、畢卡索(Pablo Ruiz Picasso)、波納爾(Pierre Bonnard)地位的新人,備感疑惑。就在此時,東洋讓我們深深著迷。然而,繁華已逝的東洋藝術,雖然有不少的犠牲者,但在這十年裡也獲得了人們的理解……」。比起馬諦斯或畢卡索,曾經更愛藤田嗣治的這群人,更是對

發掘新人 ,不遺餘力,而且據說非常理解東洋(藝術)。自古以來,他們歐洲畫壇求之於東洋的,是東洋的普遍性、可以被理解的東洋。像這樣,西洋畫以希臘(Greece)為出發點至今,連黑人(negro)的藝術也予以理解了,還將整個解體,再進行重組,懷藏所有的藝術分子並予以衍生發展。之所以可以被全體國民理解,原因也在此。如今,不是洋畫(西洋畫),而是國際畫,或稱之為

世界畫, 會更加貼切。雖然有各種風格(style)或主義(ism)或傾向,但表現的様式或手法並沒有多大的變化,有的只是平庸與天才的差距而已。聽說臺展有所謂的「地方色」(譯注2)的表現,但這種表現其實與日本的油畫或法國的畫作看起來並無太大的不同,也不足以構成相異點,因為只是題材(motif)取自臺灣,南國的太陽非常耀眼而已,藝術家的感覺上的差異十分細微。

高更(Paul  Gauguin)堪稱世界上唯一的一個,但那並非是地方色的問題,而是天才的創作。無論畫作再怎麼具有地方色,也無法作為繪畫藝術征服世人,然而,我認為臺展的洋畫(西洋畫)能夠如此掌握世界共通的藝術,其實是非常可貴的努力。臺灣的畫家意識到臺灣為其鄉土,就更應該去理解世界並致力於創作偉大的藝術作品,如同法國人研究東洋一様――近年在

歐洲畫壇 有一個傾向逐漸被意識、被問題化。歐洲大戰(第一次世界大戰)在造形美術上投影出許多鮮明的主義,例如未來派、立體派、表現派、構成派,這些在様式上具有鮮明風格(style)的主義,與戰後處於興奮高亢狀態的人心十分相配,此外,達達主義(Dadaïsme)、野獸派、超現實主義(Surréalisme)也如雨後春筍般地興起,日本等國也共襄盛舉,為世界的造形美術增添氣勢,直至今日(日本畫從未受到時代思潮的任何影響,這點值得反思)。然而,最近這種

現實苦惱 的逃避、瘋狂的主觀傾向,已從夢境中走出來,意圖抓住具有根基的現實,並以冷靜的態度認識事物的真相。這是一種屬於客觀且科學的傾向,在表現上也排除了一切的裝飾性元素,只是坦率且單純地完成預定目標,讓人看到了一個非常嶄新而嚴肅的曙光。此種傾向先是作為一種文學樣式動搖了德國,再作為一種建築樣式風靡全歐洲,並與立體派、表現派是由繪畫界指引建築界的情況相反,此種傾向是由建築界指引了繪畫界。

這個新的 傾向被稱為新自然主義、新現實主義或新即物性,其扎根於踏實的現實的歩伐在強風中旗幟鮮明地持續前進,這令我們非常期待新的文藝復興(Renaissance)的降臨。

(一九三二年十一月七日)


美術界に見る動向 臺展を見て想ふ事一二

二科会友、新美術家協会員 栗原信

パリの現画壇に著しく

東洋画の 影響を見るが、それは決して東洋画の特殊性に触れては居らない一昨年のサロン・チユレリーの一室に集つたフランス現代批評家達が、偶々議論が東洋芸術に移り「我々は大戦に於て幾多の天才達を失つた、マチス、ピカソ、ボンナールの地位を継ぐ新人を見出すのに当惑した。東洋はその間に我我を魅了した。然し、もう済んだ東洋の芸術は幾多の犠牲者を出し乍らここ十年間に理解した……」曾てはマチスをピカソを更に藤田を愛したこれらの人達は更に

 新人発見 を怠らなかつたそして東洋(芸術)は理解した、と言つてゐる、古来彼等欧洲画壇に於て東洋に求めたものは、東洋の普遍性であつた、理解され得る東洋であつた。かうして西洋画は今迄ギリシヤに出発して、ネグロの芸術まで理解して来た、総てを解体して、そして組立てた。あらゆる分子を抱蔵して発達して来た。あらゆる国民に理解され得る所以も、またそこにある、現今では、洋画でなく国際画であつて寧ろ

 世界画と 言つた方が適切であると思ふ。幾多のスタイルがありイズムがあり傾向はあるが、表現様式方法に変りはない、ただ凡庸と天才までの距たりがあるだけである。臺展に地方色云々と言ふ言葉を聞いたが、それは日本の油絵とフランスの絵と、余り異ならない如く、相異点のあるべき筈のものではないと思ふ。唯取材(モチーフ)が臺灣のものであり、南国の陽が輝いてゐると言ふだけで、芸術家の感覚の相違は微妙であると思ふ

 ゴーガン は世界に唯一人しか居たかつたあれは地方色の問題ではなく天才の仕事であると思ふ、如何に地方色を持つても絵画芸術として人を魅了することはできない、然し私は臺展の洋画に於て、あれだけの世界共通の芸術を把んで居つたことを寧ろ尊い努力であると思ふ、臺灣の画家は臺灣が郷土であることを意識して却つて世界を理解して大きな芸術の器を作るべきであらうと思ふ、フランス人が東洋を研究した様に――近年

 欧洲画壇 に一つの傾向が意識され、問題化されて来てゐる、欧洲大戦は、造形美術の上に幾多のハツキリしたイズムを投影した、未来派立体派表現派構成派、これらは様式的には鮮かなスタイルを持つて爆発高調せる戦後の人心に協和し、ダダイズムや、野獣派、シユールリアリズム等の叫びも挙がり、日本なども参加して、世界の造形美術に気勢を加へ現在に至つてゐる、(日本画が時代の思潮の何等の響きを感ぜぬことを一考され度し)然るに近頃

 現実苦脳 の逃避である、狂奔せる主観的傾向、夢想的境地から落ち着いて根柢のある現実を掴まふとし、冷静な態度で事物の真相を認識しやうとする客観的な、科学的な傾向一切の装飾的なものを排して率直に単純に合目的に表現しやうとする、非常に新鮮な真面目な曙光が見えて来てゐる、それは先づ文学様式として独逸を動かし、建築として全欧洲を風靡して、立体派、表現派が絵画より建築へ暗示したのに反して、これは建築が絵画を動かしてゐる

 この新し い傾向については、新自然主義新現実主義或は新即物性などと呼ばれ、堅実な現実に即した歩みを強風の中に鮮かに進めつつあることは、来るべきルネサンスを想望する事が出来る様に思はれる

(一九三二―一一―七)

—原載《臺灣日日新報》,1932-11-14(日刊6版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯注1. 是1863年開始舉辦的一個藝術展,展出被巴黎沙龍(Salon de Paris)拒收的作品,也稱「落選展」。

譯注2. 或稱「臺灣色」、「臺灣鄉土色」,亦使用片假名「ロカールカラー (local color)」,為臺展提倡的概念之一,常見題材包括熱帶風景、香蕉樹、廟宇飛簷、水牛、臺灣服、原住民等等。