一批評家(投)
臺展最看重的不外是以本島(臺灣)為中心的藝術創作,亦即,本島精神的深層以及其調和完美的表現,便是臺展旨趣的一切。把握住本島前進的動力或整體的傾向吧!直觀本島所結晶的焦點,立脚在此之上吧!就這個意義上,臺展第一次得以具有活生生的、獨創性的世界意義。事實上,對地方色(local color)進行完整且深刻的發掘,是藝術活動上很重要的一個要素。
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這次的臺展當然也不否定這種精神,不,正好相反,應該是在檢討的同時也致力於發展這種精神。但當實際面對之際,卻會感受到這種精神迷失在五里霧中的彷徨狀態。目前還欠缺的是,尋覓臺展精神的核心人物,但這種人物即便已存在,其意見也會受到各種束縛,而無法自由活動,且因其勢力之強大會使之被某種肆意放縱的藝術錯覺所吸引。
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於是,作家們也因為具有這種敏感(delicate)内容的審査,時而興奮雀躍、時而低沈落寞,一喜一憂,其中更有許多人都不解其意。他們只希望能一直隨心所欲地自由創作,並藉此發掘臺展的本質,然而,這次的臺展所訴諸的並不是像這樣的現實,而是旨趣的要求,令人有指示作家們如何創作之感。為此,作家們迷失在雙重的痛苦中,苦惱萬分,導致了非常多的損失。如此一來,理應促使臺展前進的現實之力也得不到基礎。給作家自由吧!讓他們更有行動力吧!讓他們利用從內心深處湧出的靈魂之力跳躍得更高些吧!然後臺展再以此為基礎,一歩接著一歩,努力到達目的地。
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至於會場,此次的會場是否較令人滿意,這點總覺得還是有些欠佳之處。第一,感覺讓畫作看起來有一點黯淡、陰鬱,畫作也沒有得到合適地陳列(展示):把需要更多光線的畫作置於暗處,與相鄰的畫作之間的關係也有不少欠缺統一之處,依尺寸大小的陳列方式也使人對畫作的内容產生異樣感。吸引觀眾眼光的呈現方式亦明顯不公平,整個會場逛了一圈所得到的最後的感想是,針對偏重某些畫作的陳列方式,最明顯導致令人分心的是審査員鹽月桃甫氏出品的二、三件作品佔據著展覽空間的中央,這點不禁令人感到奇怪,應該效仿巴黎的沙龍(salon)(譯註1),審査員能謙虛一點,把機會讓給後進作家才好。
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東洋畫第一室,蔡雪溪氏的《扒龍船》,上色技巧完全欠缺基礎訓練,尤其是遠景的山巒,就是敗在上色,希望能多研究上色的基本精神。徐清蓮氏的《春宵》,此畫的精神未能得到全面性的掌控,整個氣勢,感覺稍縱即逝。
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在第一室,佐佐木栗軒氏的《牽牛織女》,作者的心境有充分地表現出來,熠熠生光。那須雅城氏的《靈峯春趣(譯註2)》和《幽谷秋情》,過於緻密,畫的內容與之不相襯,遠山也不具有山岳的雄偉狀。渡邊星陵氏的《彩園雨後》,有穩健之處。蔡媽達氏的《姊妹弄唵蝶(譯註3)》,在表現的深度上,有得到某種程度的自由。
臺展を考察す
一批評家(投)
(上)
臺展はなによりも本島を中心にした芸術的創造への重点におちつく、深い本島の精神と、調和した完全なそれが表現とに、臺展のもつべきすべてが含有される、本島の動いていく力やまたは全体の傾向を把握せよ、本島の結晶された焦点への直観に立脚せよ、臺展はこの意味で生命ある独創的な世界意義をはじめてもつことができる実にローカル・カラーの完全な深き発見は芸術的活動にとつての重みある一要素だ。
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今度の臺展はこの精神を勿論否定はしてゐない、否むしろ考慮しつゝ、これが発展につとめてゐるといふべきであらう、しかし実際に直面して、この精神の不自由な五里霧中の彷徨状態が感じられる現在は臺展的精神の中心人物を求める意味において欠けてゐるし、現存してもその意見が色々と拘束されて自由な活動を可能ならしめないし、そして勢力的強みで勝手気儘なある芸術的錯覚に引きづられていくやうな有様を懐かせるのである。
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それで作家達もこのデリケートな内容をもつ審査で浮いたり、沈んだりして一喜一憂、各々その意を解し得ぬものが多いことゝ想はれる、彼らをして思ふ存分な自由に創造を続けさせよ、そしてそれを通じての臺展的根拠を発見せよしかし今度の臺展はこのやうな現実ではなくして、趣旨的註文から作家達に絵をつくらせるやうに感じられるのである、それでは作家達は二重の苦しみに迷はされる苦悩で多くの損失を招くのである、それでは臺展の進むべき現実の力も基礎も得られるものではない。作家に自由をあたへよ、彼らをしてより動かしめよ、よりうちから湧く、魂の力に躍らしめよ、そしてそれを基礎にして臺展は一歩、一歩と目的への到達に努力すべきである。
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会場は会場としてより意を得たものであるかどうか、といふ点でなんだか少しもの足りないやうな気がする。第一に絵を少し暗く陰鬱にした感じがするし、絵もうまい具合に生かして陳列されてゐない。光線を余計に要求する絵を暗い所に置いたり、隣との絵の関係も所々に統一を欠いたり、大きさからみた陳列も内容を変に感じさせたり。注意の喚起を不均勢にしたりして会場全体を一ぐるりとすませた最後の感想はある一方へ偏つた陳列の仕方であることを想はせるのである、殊に目立つて気をとられるのは塩月審査員の二三点が中央に据ゑられてゐることである、それがなんとなく変な感じを起させる。巴里のサロンのやうに審査員はもう少し謙遜して後進作家にみちを譲つてもよさゝうな気がする。
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東洋画の第一室で蔡雪渓氏の扒龍船は彩色が全々根本を欠いてゐる、殊に遠景の山は採色的にころされてゐる、採色の根本精神をよく研究してほしい。徐清蓮氏の春の宵は気魂が全体に迫らず、絵の全面は消えやうとしてゐるやうにみえる。
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第一室で佐々木栗軒氏の牽牛織女は作者の気分が全面的によく表現されて好彩を放つ、那須雅城氏の虚峯春趣と幽谷秋情とは緻密すぎて内容をそれに伴はず、山には山の偉大さをもたない、渡部星陵氏の彩園雨後はしつかりしてゐるところがある、蔡媽達氏の姉妹弄蝶はある程度まで深みある表現に自由を得てゐる。
─原載《臺灣日日新報》,1930-11-06(日刊3版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
譯註1. 「沙龍」為「美術展覽會」之意,為美術展的濫觴,因1667年舉辦的會場在羅浮宮的「方形之間」(salon carré)而得名。
譯註2. 原文「虚峯春趣」的「虚」,為「靈」之誤植。
譯註3. 原文「姉妹弄蝶」漏植「唵」字。