鷗亭生(譯注1)
臺展的東洋畫終於也在作者的步調上呈現一致性,水準太差的畫作似乎也已不復見。有如此感受的同時,又有一種「什麼?就『這樣』而已嗎?」的心情,雖說很失禮,但這卻是事實。針對臺展的東洋畫部所產生的這種「就『這樣』而已嗎?」的心情,並非只是今年才有,隨著出品畫家的步調逐漸一致,這種感覺反而越來越強烈。之所以如此,是因為臺展畫作欠缺東洋畫的精髄,即所謂的氣韻或風雅,抑或是欠缺如何融入近代感觸等方面的指導,因此,一想到今後的發展,心裡就難免有些不安。說得更坦率一點的話,就是大多數的作家只是一味地追求技巧,腦袋空空、什麼想法都沒有,這就是結論。
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臺展東洋畫的寵兒,有呂鐵州、郭雪湖、陳進女士等人,但除了呂鐵州君之外,其他人都在還差一步就抵達目標之處滯留,尤其是郭雪湖君的努力主義,榮獲特選與臺展賞,就已經是走到了盡頭,明年之後轉換創作方向自然是必要之舉。陳進女士的《逝春》雖然是第一幅畫面表現完美的畫作,但就只是「那樣」而已,既無深度,也無深意。這兩人若想要精進、創作「這樣」以上的作品,就必須努力鍛鍊頭腦,在精神層面上尋求突破不可。
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呂鐵州(譯注2)君現在堪稱臺展東洋畫部第一人的存在。就其被視為今秋臺展最大收穫的作品《後庭》來看,首先是技法很正確,但構圖老套,讓整幅畫看起來死氣沉沉,但出乎意料的是,這幅畫卻也呈現出柔和明亮的另一面,如此餘裕自在的表現,顯示出畫家的非凡之處。這種餘韻表現,即是東洋畫的精髄所在,若非平時有用腦思考習慣的作家,是絕對表現不出來的。作為新進(新人),在去年和今年嶄露頭角的畫家有宮田彌太郎君。今年之作《綠蔭》,呈現出新味(新鮮感),這點相當感性,評之為「會場中第一」也不為過。當然就純東洋畫的表現手法來看,這幅畫有點偏邪道之處,但其意圖感動多一點現代人的這種藝術上的追求,讓人不得不承認東洋畫也走到了今天這個地步。
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其他如描繪《大理花(Dahlia)》和《野草》的廖立芳君的手法,也有不可輕視的「正確」之處。市來栞(譯注2)女士的《花影》的臉和手的部分,輪廓線太粗,是此畫的缺點。村上無羅君的《南隆之朝》表現出迎合臺展傾向的鄉土藝術的趣味。高雄的村澤節子夫人終於以《母子圖》這幅畫,得窺大道。榮獲臺日賞的黄靜山君的《花》以真摯之心來描繪,呈現出純真的氛圍。清水雪江君的《秋》頗為老成等等。簡評以上畫作,至此擱筆。總之,今後的臺展東洋畫部在氣韻生動及時代感等方面的精神層次上的思想教導,有其必要性,這點令人感受深刻。因為這種教導倘若不足,則類似公學校(譯注3)掛圖程度的作品,在臺展是永遠不會絕跡的。
臺展評 物足らぬ 東洋画の諸作 頭の出来た作家が少ない(一)
鷗亭生
臺展の東洋画も漸く作者の足並が揃ひ、余りひどい画も無くなつて来たやうだ。さういふ感じのする傍らから、何んだ唯コレだけかーーといふ気分も甚だ相済まぬ話だが事実するのである「唯コレだけか」といふ気分を臺展の東洋部に於て感じさせられるのは単に本年だけでなく、出品画家の足並が揃つて来るに従つて反比例に此の感じが強くなつて来る。之は臺展に東洋画の精髄たる気韻とか風懐とか或は近代的感触の挿入とかいふ方の指導が欠けてゐるためではないかと思はれ今後の為めに聊か心細くもなる。もつと之を露骨に言ふと、作家の多くは技巧の末にのみ走つて頭は何時も空つぽであるといふ結論に達する。
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臺展東洋画の寵児には、呂鉄州、郭雪湖、陳氏進女などの諸君があるが、呂鉄州君を除いては、もう一息といふ所で行き詰まつてゐる殊に郭雪湖君の努力主義も特選臺展賞といふ所で精算されてしまつたので明年以後は当然方向転換が必要とされてゐる。陳氏進女の『ゆく春』も初めて完全に整うて来た作ではあるが、単にソレだけで奥行きも深味もない、此の両人ともコレ以上の作に精進するにはもつと頭を作り精神的に突つ込んで来なくてはなるまい。
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呉鉄州君は現在において臺展東洋画部第一の存在と言ひ得る。本秋第一の収穫と見らる『後庭』を見ても、第一に手法の正確さ、構図が決り切つて固い絵の割に反面で柔かい明るさを見せてゐる余裕を有たせてゐる辺り全く凡でないこの余韻を出すことが即ち東洋画の精髄であり、相当に頭を作つた作家でないと出来ない芸当に属する。昨年から本年へかけて新進として頭を出して来た画家に宮田彌太郎君がある。本年の作『緑蔭』は、新味を見せてゐる点で感触的作品として場中第一と評して過分でない、勿論純東洋画の手法からいふと邪道に近いものではあらうが、現代人を多少でも動かさうといふ芸術上の境地は、東洋画も今日は此処まで既に来てゐることを肯定してやらねばなるまい。
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その他『ダリヤ』と『野草』とを画いてゐる廖立芳君の手法にも侮られない「確かさ」のあること、市来シヲリ女の『花影』の顔面と手の線の太かつたのが破綻であつたこと、村上無羅君の『南隆の朝』が臺展向きとして郷土芸術味を出してゐること、高雄の村沢節子夫人が『母子図』に於て漸く堂に入つて来たこと、臺日賞を得た黄静山君の『花』が真摯そのもので画き上げ純な気分を見せてゐること清水雪江君の『秋』の老成等を挙げて筆を擱くが、要するに今後の臺展東洋画部には気韻や生動、それから時代感触と言つた方面の精神的思想的教導の必要なことを痛切に感じさせてゐる。此の教導が足らぬと何時になつても公学校の掛け図みた様な作が臺展から跡を絶たぬであらう
─原載《臺灣日日新報》,1931-10-31 (日刊4版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注(1) 「鷗亭生」與「鷗汀生」為《臺灣日日新報》主筆大澤貞吉(1923年入社擔任副主筆,1931年昇任主筆)之常用筆名,「鷗汀」為其號。
譯注(2) 原文「呉鉄州」的「呉」為誤植。
譯注(2) 市來的名字「栞」,讀音為「Shiwori」,常以「シヲリ」或「シオリ」、「しをり」、「しおり」來標示,而非漢字。
譯注(3) 日治時期臺灣的初等教育機構的名稱,區分為「小學校」與「公學校」,就讀學生前者以日本人、後者以台灣人為主。