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學習石川欽一郎氏的繪畫時,若只是表面上模仿石川氏,而不去學習石川氏對大自然的理解、色彩的躍動等研究態度,如此製作出來的畫作,一無可取。在臺展會場上散見石川氏風格的畫作,但都無法引起觀者的興趣,結果反而傷害了恩師的名譽,原因在此。

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第二室除了有榮獲特選的李石樵氏的畫作(《桌上靜物》),還有榮獲臺日賞的廖繼春氏的《庭》以及榮獲臺展賞的南風原朝光氏的《靜物》,但這三件作品只能說都是無可非議的習作,不到需要特別頒發獎項的程度,尤其是在色彩、立體感、躍動感等方面,這三件作品也都還有努力的空間,但在此室的這些作家都非常年輕,明年應該會製作出更優秀的作品,僅此感想。在不久的將來,唯有當這些作家的畫作脫離習作階段時,臺展才能真正擁有繪畫應有的體裁吧!

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第三室聚集了一些相當具有新味(新鮮感)的作品,無論是色彩、線條或畫面整體,都給人一種銳利的感覺。其中,最具新味的是夏秋克己氏的《過渡期的感覺》。然而,有這種新味表現(?)的畫,目前為止,屬於一種流行的傾向,而且,不用說,當畫家與流行的新味不相稱之時,亦即不具有製作的必然性之時,製作出來的作品便只會淪為令人生厭、虛偽、空虛之物,無論在形體或色彩或内涵的充實上,都十分缺乏。追求這種傾向的,又以年輕人居多,在自我意識未臻成熟之前,這種新傾向的皮相的模仿,應多加謹慎才是。

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相較於夏秋氏之作,劉啓祥氏的《持小提琴(violin)之男》和《札幌風景》是相當踏實、認真、令人愉悅的佳作,尤其是這兩幅畫的色彩感,頗不平凡。臺灣位處南國,但在臺展對表現南國色彩有理解的少數畫作中,像劉氏這樣的畫家,堪稱異色(另類)。劉氏也將是與李石樵氏等人共同背負臺展未來之人。

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觀賞臺展西洋畫時,我們還感覺到畫家的氣勢目前仍然有待加強。讓我們期待明年的臺展!(完)


臺展評 來年をー 期待する人々 習作の域を脫した時(三—終)

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石川欽一郎氏の画を学ぶ時、氏を皮相に模倣して氏の自然に対する理解、色の躍動の研究態度を学ばないならば、そこに製作された絵は何等取柄を持たぬものとならう、会場に散見する石川氏ばりの絵が何等観者の感興をひかず、ひいては師を傷つける結果をひき起してゐるのも斯る事に原因するものと思ふ

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第二室には特選となつた李石樵氏の作を始め、臺日賞を授与された廖継春氏の『庭』臺展賞を授与された南風原朝光氏の『静物』があるが無難な習作と云ふ以外、別段賞を授けられる程のものとも思はれない、殊にその色彩に就いて、立体感について、躍動に就いて見る時三作を通じて之を持ち合せてゐない、ただここに此の人達は来年はもつと優れたものを製作するであらうと云ふ若さを感ずるだけである、将来此の人達の絵が習作の域を脱した時、臺展も始めて真に絵画らしき体裁を持つに至るであらう

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第三室には可なり新味に生きやうとする絵が収められてゐる、色彩線、画面全体から来る感じ等も鋭いものがある、中でも最も新味をねらつたのは夏秋克己氏の『過渡期の感覚』であらう、然し乍ら斯る新味をもつ(?)画は今まで一種の流行的傾向を持つてゐた、そして云ふまでもなく画家と流行的新味とがぴつたりしない時製作される必然性をもたぬ時、出来上りは如何にも嫌味な虚偽な空虚なものとなる、形も色も内部的充実をかいたものとなる、斯る傾向を追はうとする事は特に若い人に多い事であるが、自らの意識がそこまで達せぬ以前斯る新傾向を皮相的に模倣する事は慎まねばならぬ事と思ふ

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夏秋氏の作に比べれば劉啓祥氏の『ヴイオリンを持てる男』『サツボロ風景』は可成地についた真面目な気持のいい作である、特にこの二つの絵のもつ色彩感には非凡なものがある、南国でありながら臺展には良き色彩に対する理解ある絵が少い中に、劉氏の如きはむしろ異色ある画家である、之も李石樵氏等と共に未来の臺展を背負ふ人であらう

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臺展西洋画を見る時我々には現在に物足りない画家の意気が感ぜられる来年の臺展の期待するものである(終)

原載《臺灣日日新報》,1931-11-02 (日刊6版)

辨識、翻譯/李淑珠