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若要讓現代人同意現代繪畫並非骨董製品而是藝術品,最起碼其本質必須是現代人類可能到達的最高的、也因此是可能主張的最具存在合理性的智、情、意的綜合性産物。此時,所謂最高的,指的並非數量上的創作的經驗累積,而是實質上的畫作的卓越內涵。

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當我們以如此觀點來審視去年的臺展洋畫(西洋畫)時,很明顯會感到失望,因為那些在會場上並列的作品,不過都是精神遲緩者的畫作,或是對時代精神的理解朦朧不清者的畫作而已。其結果便是任誰逛會場一圈,都無法得到精神上的啟發。

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然而,不可思議的是,這回的會場有一股力量向我們逼近。這大概就是這回臺展洋畫被一致認為水準有提升的原因吧!無庸贅言,向我們逼近的,就是時代精神。當然,將時代精神正確理解並予以表現出來的畫作,即使是這回,也一幅都沒發現。雖然沒有真理之作,但追求真理的寶貴的努力之作卻可以看到不少。其結果便是這回的臺展,落得內容像習作展一般的下場,已完成的畫作一幅也無,令人不勝唏噓。特選、臺展賞、臺日賞也全都頒給了習作程度的作品,然而,這對正在成長中的展覽會而言,也是不得已的事。

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當然,要在作品中表現時代精神,即使只是從技巧方面下手,也非常困難。但為何模倣他人風格的畫作在會場在人前會有陳列的價值呢?就這點來看,這回的西洋畫找不到這類的惡劣技巧之作,對臺展的未來而言,值得慶幸。

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關乎畫作最後是生是死的時代精神之類的問題,在第一室幾乎不成問題。其問題點是技巧而已,但此室有一個例外,即石川欽一郎氏的畫作。雖然動不動就有人斷言石川氏的畫很陳腐,但在發表如此言論之前,應該先對石川氏所具有的,但非外露的,似深淵般的自然觀察、形體的穩重及色彩的躍動與調和,給予高度的評價,並予以學習不可,特別是對其水彩作品,此事更是必要。然而,至今仍無一人真正學到石川氏的長處,這是為何呢?


臺展評 習作展の 觀ある西洋畫 但し模倣作は尠くなつた(二)

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現在の絵画が、現在に生きてゐる人々から骨董的製作ではなく芸術品であると認められる為には、少くともその根本に於て現在の人類が到達し得てゐる最高の、故に最も存在の合理性を主張し得る智情意の綜合的産物でなければならない。此の場合、最高のと云ふのは量的に経験の積んだと云ふ意味ではなく、質的に立優れると云ふ意味である

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吾々が此の観点から昨年の臺展洋画を眺めた時、明らかに失望せざるを得なかつた、会場に並べられた作品は殆どが精神的遅緩者の作か、或ひは朦朧たる時代精神の把握者の作かに過ぎなかつたからである。その結果会場を一巡する誰もが溌剌たる感じを得なかつた

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然るに今回の会場からは不思議に我々に迫るものを感ずる。これが今回臺展洋画が向上したと一様にいはるる原因であらう。いふ迄もなく我々に迫るものは時代精神である。勿論時代精神を確乎として把握し表現し得てゐる作は今回といへども一枚も発見し得ない。真理の作は無いが、真理を追求しやうとする尊い努力の作が多く見出されるのである。その結果今回の臺展は恰も習作展の様な結果になつた、完成された作は一枚も見出せない淋しさがある。特選、臺展賞、臺日賞総て習作品に与えられてゐる、然しこれは発育中の展覧会としては止むを得ぬ事であらう

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勿論作品に時代精神を表現する事は技巧の上から云つても困難な事に相異ない、然し何で他人模倣の作が会場に人前に並べられる価値があるであらうか、斯る点から見て今回の西洋画から悪技巧の作が姿を消した事は臺展将来の為に喜ぶべき事である

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画を最後に生けるものとするか死んだものとするかの時代精神云々の問題は第一室に於ては殆ど問題にならない。問題となるのは技巧の点のみである、然し此処に例外がある、それは石川欽一郎氏の絵に就てである、兎もすれば人々は石川氏の絵は陳腐だと云ひ放つ、然しさう云ふ前に石川氏の持つ非露出的ではあるが深淵な自然の観察、形体の落ち着きと色彩の躍動との調和を高く評価し摂取せねばならぬ筈である、特に水彩に於て此の事は必要であらう、然るに一人として石川氏の長所を真に学ぶもののないのは如何なる事であらう

原載《臺灣日日新報》,1931-11-01 (日刊6版)

辨識、翻譯/李淑珠