N生(譯注1)
A 入選者發表前
熱鬧點綴島都(臺北)之秋的第六回臺灣美術展,已於(十月)二十四日迎接招待日,並於二十五日起東洋畫以臺北第一師範為會場、西洋畫以教育會館為會場,隆重開幕。今年的搬入受理件數,東洋畫部是一百一十一件、西洋畫部是六百一十九件,両畫部都比去年的搬入受理件數増加了三十件至四十件,在品質方面,也聚集了比以往更為優秀的作品,實令人欣喜。審査是十八日和十九日的兩天,東洋畫在結城素明、木下靜涯、鄉原藤一郎(古統)、陳進的各審査員列席之下、西洋畫在和田三造、鹽月善吉(桃甫)、小澤秋成、廖繼春的各審査員列席之下進行,二十日早上兩畫部同時發表入選畫名單,其結果是東洋畫入選件數為四十九件、西洋畫入選件數為七十件。
B 從陳列到公開
像這樣,入選者的姓名對外發表,會場上諸位大家(大師)的力作與入選的逸品並肩陳列。且看過去一年的畫家的努力,究竟解決了過去的課題到什麼樣的程度?所謂的課題,指的是畫家的意識形態(Ideologie)的改造的問題。在過去,臺展出品的畫家就只是把手邊的工作完成而已,其作品實際上也只能被接受為在平凡無奇的興致驅使下的産物,這個若說難聽一點,就是一個把藝術的靈光一現蒙混成只用手的勞力工作。不用多說,只用手的工作是工匠的工作,藝術品的根本價值並非在於手工如何,而是在於藉由什麼樣的靈光誕生,承載著什麼樣的精神光芒。這個根本的問題,以前的畫家都不曾深入地思考過,這點在今年的情況是如何呢?這個課題針對的是畫家,並非觀者。其次是畫家在哪裡得到這個藝術靈光?又,畫家今年能夠展現作為一個社會人該有的見地,往歴史性發表的必然大道邁進,無所畏懼地忠於自我嗎?在任何情況下,都不應該容許藝術家關在象牙塔內,藝術遠離現實生活時才能誕生之類的說法,不過是浮游階級的無稽之談,回顧古代的傑出繪畫時,哪一個時代曾有過遁世的優秀藝術?南畫家等的藝術乍看是遁世之作,但生下這個南畫家的,則是流傳在活生生的現實社會的思想。作為實際的問題,進入或不進入深山,並非是問題所在,畫家如何把握並表現活生生的時代精神,才是問題。關於這一點,回顧過去五年的臺展,臺展的狀況絕對不是那些在現實社會中活力十足地勇往直前的人們所能同意的,因為那些畫作就只是描繪某個天氣晴朗的日子,不是嗎?以上這幾點,不知今年的畫家在畫面上有如何的表現?
C 臺展的意義(1)
然而,上述的根本的問題,不僅僅是臺展,也同樣是現今全世界的畫壇正在煩惱的問題。認識歴史必然的腳歩,站在這個觀點來設定繪畫的形式,換言之,當站在這個觀點之時,到底應該要採用什麼樣的色彩或畫法?新的酒瓶長什麼樣子?這些仍是全世界的畫家們的共同煩惱ーー即若解決不了這些問題,以新價値的繪畫為內涵的文化建設則達成不了的煩惱ーー,但將之透過自己的個性思考,並積極參與新的建設,才不枉費作為文化人的畫家生命,對吧?我認為像這種創造新繪畫形式的偉大工作,單靠一個天才的努力,實際上是不可能成功的,必須仰賴所有人的努力,才有實現的機會。如此說來,臺展的畫家們現在是否正朝著這個目標(goal)努力不懈呢?臺展自創立以來已歷六載,當我們今天觀看臺展的東、西洋畫時,其實已經看不到仍認真付出這種努力的畫家了,究其原因,可能是臺展出品畫家大多是擔任官職之人或是業餘者(amateur)的緣故。總之,會場上陳列的,不管是大家的力作,還是新進的逸品,全都是太平之世的夢囈般的産物,而且除了二、三幅作品之外,大多都是墨守古畫殘骸之人的畫作,或是一些怪異炫奇的西洋繪畫的技巧模倣,真是可悲至極。不信的話,請看一下會場,以新意義的文化建設者自居,浴血奮戰的畫家在哪?
D 臺展的意義(2)
展覽會本來是由拿破崙(Napoleon)首創的,因為英雄想要向世界吹捧自己,而在今天,展覽會的目的被認為是為了使畫家的生活得以維持,然而,展覽會的真正意義必須是一個讓畫家向世界表達其藝術觀點的機制才對,但臺展似乎已失去了這個意義。即便如此,筆者仍願意承認臺展現在的意義,因為我們藉由平時我們本身的苦悶來訴說的語言,是我們自己的語言。但若再仔細思考的話,又會發現這些並非是我們自己創造的語言,大多只是透過書籍或聽過留下記憶的借用語而已。然而,當我們使用這種借用語進行交談,久而久之會逐漸成長,變成使用自己創造的語言交談。臺展的意義即是在此,畫家們使用借來的畫筆和借來的頭腦,在互相描摹之下,屬於自己的繪畫便會自然而然地的出現。某些畫家主張必須當自我能在畫面上完全表現出來時再出品展覽會,但這種意見與必須真正能說自己的語言時才能開口說話,是一樣的意思。臺灣美術展(譯注2)的舉辦,未來也會持續不斷,上述是筆者對其現在的意義的認知,接著來看個別的作品。
東洋畫
從第一室開始,挑選(譯注3)傑出者進行評論,
宮田彌太郎氏的四曲屏風(譯注4)《飛泉震撼》
描寫年輕的裸女數人坐在飛瀑前的岩石上,是一幅作者的純真幻想與作者的世俗野心相互交織的畫作。雖然畫作的尺寸甚大,容易吸引觀者的目光,但看到的只是缺乏變化的同一種技巧的重複而已,尤其是作者純真富詩意的幻想,在企圖利用大畫面賺取驚喜的幼稚野心之前,慘遭粉碎,好好的一幅畫,完全變樣,令人生厭,特別是具立體感、褐色皮膚、宛如西洋畫(油畫)的裸女,卻被圖案式的波浪圍繞著,這種不一致顯示出技法的破綻。若想要表現詩意的訴求,就必須捨棄其他的訴求不可。
蔡雲岩(譯注5)氏的《秋晴》,
當觀者站在此畫之前,會認同作家的努力嗎?當然,這幅畫的製作一定是花費了相當多的時間,而這點也適用於陳進氏描繪的古代支那(中國)風俗的《芝蘭之香》或是描繪林本源邸宅的郭雪湖氏的《薫苑》,但這些畫其實正反映出一個事實,亦即,單靠工匠般的努力,並不能創造出美術,任憑技巧再怎麼熟練,也創造不出卓越的美術。
藝術作品來自於潛伏於內心深處的藝術衝動的活躍,這點,眾所皆知。若這種衝動已然枯竭,卻企圖在人前以技巧蒙混過關的話,只會讓人感到非常不愉快,別無其他。
相較於上述的三幅畫,此次女子高等學院學生的出品,即吉川清江氏的《月下美人草》與其他五氏(譯注6)的小品,怎麼樣呢?在技巧方面,絕對無法與前三者相抗衡,但其思考美、嚮往美的心,卻遙遙領先前三者。俗語說「長出花軸」(譯注7),要以美為創作軸心才好。
第三室有呂鐵州氏的《蓖麻(譯注8)與軍雞》。雖然是常見的畫題,但卻是此回臺展的傑作。建議作者運用諷刺意味更為強烈的技巧,以充分表現那隻軍雞(鬥雞)身上的霸氣。
其他例如林東令(譯注9)氏的《山羊》或山崎文子氏的《牽牛花》等令人憐愛的作品不少,但就整體而言,東洋畫聚集的是一群陷入沉睡的畫家,令人同情。只有一個人正在撼動這個沉睡中的畫壇,此人便是《庭園之秋》的作者間宮正氏。這幅畫的尺寸不大,也不是間宮氏的力作,但畫面散發的藝術氣韻,的確有打動人心之處。希望間宮氏能為了萎靡不振的臺灣美術展的東洋畫,持續精進不已。
西洋畫
西洋畫與東洋畫相比,值得矚目的作品多出許多。在第一室有平川知道氏的《靜物》、李石樵氏的《人物》、中原正幸氏的《有花的風景》等等未脫習作之域但其未來發展可期的作品。第二室有令人聯想荷蘭(Olanda)風俗畫的大齋(譯注10)春夫氏的《靜物》,或色彩表現傑出的佐伯久(譯注11)氏的《神戸的靠山區》等,雖是小品,但卻表現生動,藝術感十足。最後,南風原朝光氏的《蝴蝶標本》、鹽月(桃甫)審査員的《母》,兩作的確是此次展覽會的重大收穫。
(因已超過預定的頁數,故至此擱筆)
第六回臺展入選目錄
東洋畫{出品者 八十六名 總件數 一百一十一件
無鑑査 五件 入選 四十九件
審査員出品 四件
第一室
編號 畫題 地址 姓名
一 秋色 嘉義 施玉山
二 飛泉震撼 臺北 宮田彌太郎
三 清妍 臺南 陳永森
四 芭蕉 臺北 謝永火
五 山科(譯注12)之夏 臺中 白子修二郎
六 秋晴 臺北 蔡雲岩
七 深山之朝 臺南 秋山春水
八 閒庭秋色 臺北 野間口墨華
九 武帝 臺南 潘春源
第二室
一〇 追啄 高雄 許春山
一一 池邊 臺北 市來栞(譯注13)
一二 新高山 嘉義 常久常春
一三 錦繡山谷 臺北 清水雪江
一四 葡萄 臺南 蔡媽達
一五 黃昏 東京 山本貞子
一六 夾竹桃 臺北 松島蔦子
一七 遊鯉 臺北 廖立香
一八 精 臺北 田部善子
一九 美人蕉(Canna) 臺北 林阿琴
二〇 風鈴扶桑花 臺北 陳雪君
第三室
二一 無題 臺中 陳慧坤
二二 蓖麻與軍雞 臺北 呂鐵州
二三 綠蔭 臺南 伊藤谿水
二四 山寺曉靄 嘉義 徐清蓮
二五 月下美人草 臺北 吉川清江
二六 靜秋 臺南 吳天敏
二七 山羊 臺南 林東令
二八 後山 臺北 高梨勝瀞
二九 芝蘭之香 新竹 陳進
三〇 鯉 臺北 末延柳萠
三一 初夏 臺北 中部正子
三二 紫蘭 臺北 彭蓉妹
第四室
三三 朝霧 臺北 郭雪湖
三四 雙鶴 臺中 呂孟津
三五 姊妹 臺南 薛萬棟
三六 涼味 臺北 謝寶治
三七 盛夏 臺北 呂鐵州
三八 甘蔗 嘉義 林玉山
三九 雨後的日月潭 臺北 岡藤園
四〇 椿 臺中 呂汝濤
四一 玉峰秀色 臺北 鄉原古統
四二 小邊嬉雀 臺北 間宮正
四三 菜園 臺北 橫尾七瀬
第五室
四四 西歐阿爾卑斯 (Alps)山脈 臺北 那須雅城
馬特洪峰(Matterhorn)之圖
四五 牽牛花 臺北 山崎文子
四六 薫苑 臺北 郭雪湖
四七 雨去山色新 嘉義 朱芾亭
四八 黄花 臺北 張福氣
四九 鵝鑾鼻(譯注14) 東京 結城素明
五〇 佛果(釋迦) 嘉義 盧雲友
五一 立秋之日 淡水 木下靜涯
五二 少女戲圖 臺北 陳敬輝
五三 秋葵(okra)與鴨 嘉義 張秋禾
五四 扶桑花 臺北 呂鐵州
五五 林泉廟丘 基隆 村上無羅
五六 庭園之秋 臺北 間宮正
五七 紅竹 臺北 松尾翠
五八 雁來紅 臺北 邱氏金蓮
西洋畫{出品者 三〇七名 總件數 六百一十九件
無鑑査 二件 入選 六十八件
審査員出品 七件
第一室
編號 畫題 地址 作者
一 聖堂 臺南 許賛育
二 從陽臺 臺北 李財福
三 初秋的市街 臺中 小林俊介
四 午後的媽祖樓(譯注15) 臺南 江海樹
五 伊芙那 (Yvonne) 臺北 堀越英之助
六 松邨夕照 嘉義 陳澄波
七 靜物 臺北 平川知道
八 裸婦 臺北 竹中正義
九 庭園 基隆 蘇秋東
一〇 有船的風景 基隆 蘇秋東
一一 風景 東京 小澤秋成
一二 在書齋中 臺北 廖賢
一三 車站附近 臺中 姫浦光
一四 中秋淡水風景 臺北 名島貢
一五 構圖(composition) 臺北 黃集榮
一六 四點左右 新竹 簡明春
一七 風景 臺南 佐藤淳一郎
一八 和睦 臺中 堀部一三男
一九 從博物館 臺北 久保田朝之
二〇 庭 臺南 范洪甲
二一 蕃社的少女 臺北 西東重義
二二 青年像 臺南 柳德裕
二三 淡水河畔 臺北 李永吉
二四 仙人掌(sapoten) 臺北 中條正夫
二五 坐下 臺北 小川勇
二六 高雄風景 臺南 廖繼春
二七 綠蔭 臺南 廖繼春
二八 靜物 臺南 廖繼春
二九 大稻埕的後街 臺北 成富禮正
三〇 商巷 臺北 藍蔭鼎
三一 靜物 臺中 楠瀬土佐夫
三二 人物 東京 李石樵
三三 靜物 東京 李石樵
三四 水手服 臺中 鈴木千代吉
三五 有花的風景 臺中 中原正幸
三六 有天橋(bridge)的風景 臺中 吉田吉
三七 午後的水果店 臺中 葉火城
第二室
三八 有榕樹的風景 臺中 楊啓東
三九 樹木之間的噴水池 臺中 王坤南
四〇 靜物(譯注16) 臺北 濱武蓉子
四一 屏東風景 屏東 三橋鐵郎
四二 靜物 東京 松本貞
四三 婦人像 臺北 大齋春夫
四四 靜物 臺北 大齋春夫
四五 大正公園 臺南 秋本好春
四六 畫室(atelier) 臺北 富田一夫
四七 紅花 臺北 富田一夫
四八 蝴蝶標本 臺北 南風原朝光
四九 靜物 臺北 南風原朝光
五〇 從路樹望向市街 臺南 御園生暢哉
五一 少女坐像 臺中 林金鐘
五二 後街 臺北 佐伯久
五三 神戸的靠山區 臺北 佐伯久
五四 鄰家 臺南 副島千里
五五 少女 高雄 柏尾鞠子
五六 盆栽棚架 臺北 室谷早子
五七 潮州赤山教會堂 高雄 横山精一
五八 靜物 臺北 李梅樹
五九 樹 臺北 鹽月善吉
六〇 母 臺北 鹽月善吉
六一 車站前街道 臺北 (已故)森部謙
六二 茶箱等等 臺北 高田良男
六三 街屋 臺北 高田良男
六四 桌上 臺北 高田「高+香」(譯注17)
六五 交通(港) 臺南 湯川臺平
六六 早晨的陽臺(balcon) 臺北 渡邊香子
六七 風景 東京 和田三造
六八 花(les fleurs) 東京 張昆麟
六九 庭 臺北 木村義子
七〇 俊雞 臺北 福永浩之
七一 靜物 臺北 塚本外茂
七二 穿襯裙(chemise)的女人 臺南 松崎亞旗
七三 黄衣少女 臺南 松崎亞旗
七四 水壺與書 臺北 竹內軍平
七五 船頭(bow)風景 臺北 船曳實雄
七六 廟前的市場 臺北 張萬傳
七七 少女 臺中 李紫庭
第六回臺灣美術展を見る
N生
A 入選者発表まで
島都の秋を色濃く飾る第六回臺灣美術展も愈々二十四日を招待日とし、二十五日から東洋画は臺北第一師範を会場とし、西洋画は教育会館を会場として華々しく開催せられた、今年の搬入受付点数は東洋画部に於ては一一一点西洋画部に於ては六一九点であつて両画部とも昨年の搬入受付点数より三十点乃至四十点を増加し、質の点に於ても従来より遥かに優れた制作品の集まつた事は喜ばしい事であつた、審査は十八、九の両日、東洋画は結城素明、木下静涯、郷原藤一郎、陳氏進、の各審査員立合ひのもとに、西洋画は和田三造、塩月善吉、小沢秋成、廖継春の各審査員立合ひのもとに行はれ二十日朝両画部とも入選画の発表を行つた、その結果は東洋画入選点数四九点西洋画入選点数七〇点であつた。
B 陳列より公開まで
斯くて愈々入選者氏名も発表となり会場には諸大家の力作と進入の逸品とが並べられる事になつた訳であるが、扨過去一年の画家の努力はどの程度まで過去の宿題を解決してゐるであらうが、宿題とは画家のイデオロギーの改造の問題である、過去に於て臺展出品の画家達はただ手先の仕事をのみをなし来つた、その作たるや実に平々凡々たる感興の産物としか受取れぬ作であつた、之を悪く云べば芸術的感興のかすれを手先仕事で茶化してゐる仕事であつた。云ふ迄もなく手先仕事は職工の仕事である、芸術品の第一義的価値は手先にあるのではなく如何なる感興によつて生れ、如何なる精神のひらめきが盛られてゐるかにある、此の第一義的問題を従来の画家達は深く考慮に入れてゐなかつた、この点は今年は如何であらう、これが観者より画家に課した一つの宿題であつた、次に画家達は此の芸術的感興を如何なる所に求めたであらうか、果して今年は見事に社会人としての識見を把握し歴史的発表の必然の道をあゆんで何者にもおそれる事なく自個を呼号してゐるであらうか。如何なる場合でもあれ芸術家が象牙の塔に籠る事は許さるべきではない、芸術が実生活から離れた時に生れると云ふ如きは浮遊階級のたはことに過ぎぬ、古の傑出した絵画を顧る時何時の時代に世を遁避した優れた芸術があつたであらうか、南画家等は一見世を遁れたとも見られるが、この南画家を生んだのは生々した実社会も流れる思想であつた、実際問題として山の奥に入るか入らぬかは問題でなくして画家が生々した時代の精神を如何に把握し表現してゐるかゞ問題である、この点に関して過去五ケ年間の臺展を顧みる時決して臺展は実社会に生々と活動を続けてゐる人々にも叩首される様なものではなかつた、或る天気晴朗の一日を描いたものに過ぎなかつたではないか之等の点に就いて今年の画家達は如何なる関心を見せてゐるであらうか。
C 臺展の意義(1)
然し乍ら以上の如き第一義的の問題に就いては臺展のみならず現今でなは世界の全画壇が等しく悩を続けてゐる問題である。歴史的必然の歩みを認識し、この見地に立つて絵画の形式を定める、換言するならば、この見地に立つた場合如何なる色と絵とが用ひらるべきか、新しい酒袋は如何なるものか、に就いては未だ全世界の画家達が共同の悩みーーこれを通してゞなければ新しき価値ある絵画を通しての文化の建設をなし得ない所のーーを自らの個性を通じて悩み新しき建設へ参加するこそ文化人としての画家生命ではあるまいか、思ふにその新しき形式を見出す事の如き偉大なる仕事はたゞ一人の天才の努力に依つては現実し得ない事であると思ふ、総ての人の努力に依つてこそ見出さるべきものであらう、斯くの如き現在、臺展の画家達がこのゴールにむかつて努力しつゝあるか否か、今我々が臺展の東西洋画を見る時、創立以来既に六年を閲す臺展も末だに真剣に此の努力を払ひつゝある人を見ないのである、この事は臺展出品画家が多くは官職を奉ずる人であるが、或はアマチユアである事に原因するのであらう、兎に角会場に並べられた、大家の力作、新進の逸品共に太平の世の夢の産物であり尚且二三の作を除いてはその多くが古画の残骸を墨守する人々の絵であり、又は西洋の奇怪に走しらんとする絵画の手先の模倣である事は何としても悲しむべきことである、試みに会場を見るならば何処に新しき意義ある文化の建設者として血みどろの戦をしてゐる画家が居ようか。
D 臺展の意義(2)
そもそも展覧会の始りはナポレオンに依てがあつた、英雄が自らを世に誇らんが為であつた、現在では展覧会の目的は画家の生活を維持せんが為のものであるとも云はれてゐる、然し乍ら展覧会の真意義は画家が自らの主張を世に呼号する機関としてでなくではならない、然し乍ら臺展の殆んど失はれるが如きである。然し乍ら筆者は尚且つ左の理由に依つて臺展の現在の意義を認めようと思ふ、即ち我々は日常我々自身の苦で話してゐる言葉は我々自身の言葉であると考へてゐる、然し乍らよくよく考へて見れば、これは我々自身の言葉ではない、多くは書物を通じ又は耳を通して覚えた貸りた言葉に過ぎない、然し我々が此の貸りた言葉に依つてお互に語つてゐる中に次第に我々は自らの言葉を話す様に成長する、臺展の意義も又此処にある、画家達がお互に貸りものゝ筆と貸りものゝ頭とで描き合つてゐる中に自とそこに自分自身の絵が、現れて来るのである、或る画家達は自分自身が完全に表現されたと思つた時に展覧会に出品しようといふ意見を持つてゐる、然し乍ら之は丁度真に自分の言葉を話せる様になつた時始めて口を開かうと云ふ様なものである、筆者は将来永き臺展美術展の現在の意義を以上の如く認め個々の作品に接して見ようと思ふ、
東洋画
第一室より目星いものを捨つて行く、
宮田彌太郎氏の四曲屏丸「飛泉震撼」
若い裸数人 飛瀑の前の岩の上に置いたもの作者の素朴な空想と、作者の世俗的野心とがからみ合つて出来たもの、観者の目を奪ふ様な大幅も結局は変化のない同一技巧の繰返しに過ぎない、特に作者の純心な詩空想は大幅で人を驚かせようといふ幼稚な野心の前に無惨にも打破かれて、折角の絵をいやみたつぷりな物にして了つてゐる、特に現実的な褐色で西洋画物な裸女が文様風な波にかこまれた為に筆の破綻を示してゐる、詩的な要求を活かそうとする為には他の要求を捨てねばならない。
蔡雪岩氏の秋晴、
人々は此の絵の前に立つてその努力を買ふであらうか、勿論この絵は大した時間を費して描かれたものに相違ない、この事は陳氏進氏の古代支那風俗を澹念に書いた「芝蘭の香」或は林本源の邸宅を描いた郭雪湖氏の「薫苑」にもあてはまるのであるが、職工的努力のみが美術を生むものでない事を、技巧の達者のみが優れた美術を生むものでない事を実によく署名する様な絵である。
芸術作品は心の奥深くひそむ芸術衝動の活発なる活動に待つものである事は総ての人の知る所である、既に此の衝動を枯らして人々の前に技巧で茶化そうとする事は不愉を人に与へこそすれ何ものをも与へないであらう。
之に対し今回女子高等学院生徒の出品した吉川清江氏の月下美人草始め五氏の小品はどうであらう、技巧の点に於いては決して前三者を立ち打ちの出来るものではない、然し美を思ひ美を慕ふ心に於ては遥に遥に前三者を凌ぐものがある、俗に薹が立つといふ心すべき事である。
第三室には呂鉄州の「篦麻に軍鶏」がある、よく見らる、画題とは云ひ乍ら当展の傑作である、もつといや味な技巧が取れあの軍鶏の持つ覇気がすらりと表現して欲しかつたと思ふ。
然し此の他にも或は林本令氏の「山羊」如き又山崎文子氏の「朝顔」の如き可憐なる作は多いが然し兎に角東洋画を一括して評せば可憐にも眠れる画家の一群とも云ふべきである、然しこゝに此の眠れる画壇振駭しつゝあるたゞ一人の人があるそれは「庭園の秋」を描いた間宮正氏である、画は大幅でもないし氏の力作でもあるまいが画面にもられた芸術的気韻は確かに人の心を打つものがある萎靡振はない臺灣美術展東洋画の為に精進を続けられんことを祈るものである。
西洋画
西洋画は東洋画に比すれば遥かに注目すべき作が多い第一室に於ける平川知道氏の「静物」李石樵氏の「人物」中原正幸氏の「花のある風景」等いまだ習作とは云ひ乍ら将来の発展を思はせるもの、第二室の大齊春夫氏のオランダ風俗画を思はせる「静物」或ひは色彩のすぐれた佐伯氏の「神戸の山手」等小品ながらも明らかに生々として芸術的感興を思はせるものである、最後に南風原朝光氏の「蝶の標本」塩月審査員の「母」は確かに今展覧会に於ける大なる収穫であつた。
(予定頁数より超過した為こゝで擱筆いたします)
第六回臺展入選目録
東洋画{出品者 八六名 総点数 一一一点
無鑑査 五点 入選 四九点
審査員出品 四点
第一室
番号 画題 住所 氏名
一 秋色 嘉義 施玉山
二 飛泉震撼 臺北 宮田彌太郎
三 清妍 臺南 陳永森
四 芭蕉 臺北 謝永火
五 山科の夏 臺中 白子修二郎
六 秋晴 臺北 蔡雲岩
七 深山の朝 臺南 秋山春水
八 閑庭秋色 臺北 野間口墨華
九 武帝 臺南 潘春源
第二室
一〇 追啄 高雄 許春山
一一 池辺 臺北 市来シオリ
一二 新高山 嘉義 常久常春
一三 谷間のにしき 臺北 清水雪江
一四 葡萄 臺南 蔡媽達
一五 日ぐれ 東京 山本貞子
一六 夾竹桃 臺北 松島蔦子
一七 遊鯉 臺北 廖立香
一八 精 臺北 田部善子
一九 カンナ 臺北 林氏阿琴
二〇 風鈴扶桑花 臺北 陳氏雪君
第三室
二一 無題 臺中 陳慧坤
二二 蓖麻に軍鶏 臺北 呂鉄州
二三 緑蔭 臺南 伊藤谿水
二四 山寺曉靄 嘉義 徐清蓮
二五 月下美人草 臺北 吉川清江
二六 静秋 臺南 呉天敏
二七 山羊 臺南 林東令
二八 裏やま 臺北 高梨勝瀞
二九 芝蘭の香 新竹 陳氏進
三〇 鯉 臺北 末延柳萠
三一 初夏 臺北 中部まさ子
三二 紫蘭 臺北 彭氏蓉妹
第四室
三三 朝霧 臺北 郭雪湖
三四 双鶴 臺中 呂孟津
三五 姉妹 臺南 薛万棟
三六 涼味 臺北 謝氏宝治
三七 盛夏 臺北 呂鉄州
三八 甘蔗 嘉義 林玉山
三九 雨後の日月潭 臺北 岡藤園
四〇 椿 臺中 呂汝涛
四一 玉峰秀色 臺北 郷原古統
四二 小辺嬉雀 臺北 間宮正
四三 菜園 臺北 横尾七瀬
第五室
四四 西欧アルプス 臺北 那須雅城
マツターホルンの図
四五 朝顔 臺北 山崎文子
四六 薫苑 臺北 郭雪湖
四七 雨去山色新 嘉義 朱芾亭
四八 黄ノ花 臺北 張福気
四九 東京 結城素明
五〇 仏果 嘉義 盧雲友
五一 秋立つ日 淡水 木下静涯
五二 少女戯図 臺北 陳敬輝
五三 オクラに鴨 嘉義 張秋禾
五四 扶桑花 臺北 呂鉄州
五五 林泉廟丘 基隆 村上無羅
五六 庭園ノ秋 臺北 間宮正
五七 紅竹 臺北 松尾翠
五八 雁来紅 臺北 邱氏金蓮
西洋画{出品者 三〇七名 総点数 六一九点
無鑑査 二点 入選 六八点
審査員出品 七点
第一室
番号 画題 住所 作者
一 聖堂 臺南 許賛育
二 露臺より 臺北 李財福
三 初秋の街 臺中 小林俊介
四 午後の媽祖 臺南 江海樹
五 イボンヌ 臺北 堀越英之助
六 松邨夕照 嘉義 陳澄波
七 静物 臺北 平川知道
八 裸婦 臺北 竹中正義
九 庭園 基隆 蘇秋東
一〇 船のある風景 基隆 蘇秋東
一一 風景 東京 小沢秋成
一二 書斎の中にて 臺北 廖賢
一三 停車場附近 臺中 姫浦光
一四 中秋淡水風景 臺北 名島貢
一五 コムポジシヨン 臺北 黄集栄
一六 四時頃 新竹 簡明春
一七 風景 臺南 佐藤淳一郎
一八 和み 臺中 堀部一三男
一九 博物館より 臺北 久保田朝之
二〇 庭 臺南 范洪甲
二一 蕃社の少女 臺北 西東重義
二二 青年像 臺南 柳徳裕
二三 淡水河畔 臺北 李永吉
二四 サボテン 臺北 中条正夫
二五 腰掛ける 臺北 小川勇
二六 高雄風景 臺南 廖継春
二七 緑蔭 臺南 廖継春
二八 静物 臺南 廖継春
二九 大稲埕の裏町 臺北 成富礼正
三〇 商巷 臺北 藍蔭鼎
三一 静物 臺中 楠瀬土佐夫
三二 人物 東京 李石樵
三三 静物 東京 李石樵
三四 セーラー服 臺中 鈴木千代吉
三五 花のある風景 臺中 中原正幸
三六 ブリツチのある風景 臺中 吉田吉
三七 午後の果物屋 臺中 葉火城
第二室
三八 榕樹のある風景 臺中 楊啓東
三九 樹間の噴水 臺中 王坤南
四〇 青物 臺北 浜武蓉子
四一 屏東風景 屏東 三橋鉄郎
四二 静物 東京 松本貞
四三 婦人像 臺北 大斎春夫
四四 静物 臺北 大斎春夫
四五 大正公園 臺南 秋本好春
四六 アトリエ 臺北 富田一夫
四七 赤い花 臺北 富田一夫
四八 蝶の標本 臺北 南風原朝光
四九 静物 臺北 南風原朝光
五〇 立木より市街を望む 臺南 御園生暢哉
五一 少女坐像 臺中 林金鐘
五二 うらみち 臺北 佐伯久
五三 神戸の山手 臺北 佐伯久
五四 隣家 臺南 副島千里
五五 少女 高雄 柏尾鞠子
五六 植木棚 臺北 室谷早子
五七 潮州赤山教会堂 高雄 横山精一
五八 静物 臺北 李梅樹
五九 樹 臺北 塩月善吉
六〇 母 臺北 塩月善吉
六一 駅前街道 臺北 故森部謙
六二 茶箱など 臺北 高田良男
六三 町家 臺北 高田良男
六四 卓上 臺北 高田馨
六五 交通(港) 臺南 湯川臺平
六六 朝のバルコン 臺北 渡辺香子
六七 風景 東京 和田三造
六八 ラフルール 東京 張昆麟
六九 庭 臺北 木村義子
七〇 俊鶏 臺北 福永浩之
七一 静物 臺北 塚本外茂
七二 シユミーヅの女 臺南 松ケ崎亜旗
七三 黄衣の少女 臺南 松ケ崎亜旗
七四 水差ト本 臺北 竹内軍平
七五 バウ風景 臺北 船曵実雄
七六 廟前の市場 臺北 張万伝
七七 少女 臺中 李紫庭
—原載《臺灣教育》,第364號,1932-11-01
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注1. 「N生」可能是「野村幸一」,《臺灣日日新報》的漫畫記者。
譯注2. 原文「臺展美術展」應為誤植。
譯注3. 原文「捨つて」為「拾つて」的誤植。
譯注4. 原文「屏丸」為「屏風」的誤植。
譯注5. 原文「蔡雪岩」為「蔡雲岩」的誤植,「岩」亦通「巖」。
譯注6. 分別為中部正子、彭蓉妹、邱金蓮、林阿琴、橫尾七瀬。
譯注7. 「薹が立つ」之句有引申為「過時」或「全盛時期已過」之意,但因無法承接前一句的意思,故採用該句的字面意義。
譯注8. 原文「篦麻」的「篦」為誤植。
譯注9. 原文「林本令」的「本」為誤植。
譯注10. 原文「大齊」的「齊」為誤植。
譯注11. 原文漏植「久」字。
譯注12. 日本地區名稱,京都市的十一區之一。
譯注13. 市來的名字「栞」,讀音為「Shiwori」,常以「シヲリ」或「シオリ」、「しをり」、「しおり」來標示,而非漢字。
譯注14. 原文空白,應為漏植。
譯注15. 根據臺展圖錄,正確的作品名稱為「午後の媽祖樓」。
譯注16. 根據臺展圖錄,正確的作品名稱為「靜物」,故原文「青物」的「青」為誤植。
譯注17. 此人的名字,正確的漢字為一組字(「高」無「口」,下置「香」),應為罕見舊字,並因其結構過於複雜,常被以「馨」或「睿」取代,原文的「馨」亦是如此。