獲知審查將採取至今未曾有過的嚴選,臺灣全島的畫家都以異常緊張的心情等待入選名單的發表,(十月)二十一日上午十點,在入選者姓名的發表會場舊廳舎(今欽差行臺)之前,擔心入選或落選結果的人群蜂擁而來,婦人們的身影也混夾其中引頸等待發表,十點一到,入選者姓名準時被張貼至舊廳舎大門前,看到自己新入選而手舞足蹈者、沒想到自己會落選而滿臉憂鬱踏上歸路者等等,發表會場前果然呈現一片悲喜交集的情景。另一方面,臺展主辦單位這邊除了會場前的名單發表,同時也完成了全島出品者全員結果的通知。就此次的審査情況來看,果然可以察覺到嚴選的痕跡和審査員的苦心,入選的畫作每一幅都是精心挑選之作,等公開展出時相信一定能帶給觀者比以往更加深刻的印象。今年比較明顯的傾向是新入選與歷年相比,件數增加了非常多,西洋畫方面入選五十件之中新入選就有二十二件、東洋畫入選三十二件之中就有十件,這點作為迎接第五回,為越來越容易停滯不前的臺展灌注了新鮮空氣,一般認為是可喜的現象。儘管此次是嚴選,也順利通過(pass)了這回臺展難關的初入選的人們,有如下的感想。

「純屬偶然」 前田俊夫君談

前田俊夫君是在總督府營繕課工作的青年建築技術家。到營繕課拜訪時,比起受訪者本人,周圍的人指手畫腳地說:「看!是臺日(臺灣日日新報)記者!」,爭相把興奮不已的前田君推到前面來。

記者開口問道:「請說一下感想」。

只聽到前田君一直重複:「完全沒想到會入選!純屬偶然!」。

不知是否因為太

高興, 一時激動而哽咽,只見他不斷掻頭,臉上堆著喜悅的笑容。前田君是二十七歳的青年,去年(1930年)春天一從福井高工的建築科畢業後,就立即進入營繕課就職,在建成町與老父老母同住,三人一起過著平靜的家庭生活。據說前田君從學生時代就喜歡畫水彩畫,油畫的話,比較是其次,今年也受到周遭親友的鼓舞,出品了水彩畫一件和油畫一件。

雖然是很小一幅,但我其實是對這幅水彩畫比較有自信。

說到此,又一面重複:「真是意外!真是意外!」,一面掻頭。入選的油畫是以臺北植物園的蓮池為主題的《有蓮池的庭園》。前田君目前正在著手進行臺南高等學校本館(今國立成功大學博物館)的

設計, 對未來滿懷著希望。

希望能傾自己所學,將來往住宅建築方面發展。至於油畫,今後也會更加努力。

營繕課内以前田君為中心,歡喜和興奮和友情化成了層層的漩渦轉動。突然聽到有人喊:「喂!這值得去食堂請客吧!」,想必前田君又在搔著頭。

洋畫 只花了一晩就完成 小山武郎氏

之前住在仙臺,所以今年是第一次出品。洋畫(油畫)只花了一個晩上,總共五小時就完成,模特兒(model)是我老婆,因為畫的是裸體。東洋畫是畫新公園,尺寸並不大,因為沒有時間,畫不出更好的作品,又聽說這次是嚴選,還以為不會入選呢!

「原以為 已與繪畫無緣」 田部善子女士談

記者到以東洋畫《朝靄》榮獲初入選的女流(女性)畫家田部善子(蕉圃)女士在新富町的住家拜訪時,田部女士膝上抱著兒子,臉龐因為喜悅而泛紅,接受採訪說:

「我以為像我這樣的人已被繪畫拋棄,入選了是嗎?早忘了是從東京女子美術學校(譯注1)畢業的了,大約六年前的事吧!臺灣是最近才來的。因為喜歡,所以有時會提筆作畫」。

在植物園温室的 寫生之作 女子高等學院學生 周紅綢同學談

出品臺展東洋畫部,以《蝴蝶蘭(Oncidium)》入選的周紅綢(十八歲)同學,去年自三高女(臺北第三高等女學校,今中山女高)畢業,目前就讀臺北女子高等學院(1931設立-1944閉校)一年級。記者於(十月)二十一日到臺北市永樂町四丁目六十四番地的周家拜訪時,剛從學校回來的紅綢同學以非常流利的國語(日語),興高采烈地接受了採訪。

今天早上收到通知才知道自己入選了,我和母親都非常高興,只是沒想到那麼拙劣的畫能夠入選,實在是連做夢也始料未及。畫題的「Oncidium」是蘭花的一種,今年七月中在植物園温室的寫生之作,經鄉原(古統)老師的建議,趕在報名截止的十月十六日送件,居然入選了,這都是託了大家的福。以後也希望能在各位老師的總指導下好好地研究東洋畫,但因為是長女,所以無法赴東京學畫,這事令我感覺非常遺憾。

母親也 高興萬分 佐藤淳一郎君

記者帶著初入選的消息,到佐藤淳一郎氏在文武町的住家拜訪,首先從玄關出來的佐藤之母聽到兒子淳一郎氏的入選,臉上一邊洋溢著喜悅的笑容,一邊大聲對淳一郎君喊說:「阿淳,說你入選了喔!」,這時手上還拿著畫筆的青年淳一郎君從裡面出來,喜孜孜地反問:「我入選了嗎?」,其母於是高興地跟記者說:

這孩子啊去年還在東京的目白中學就讀,因為鼻子染疾,這個夏天來臺北接受治療,他本來就喜歡畫畫……還只是個孩子。

松本貞小姐 人在東京 父親接受採訪

去拜訪初入選的松本貞小姐,由其父接受採訪。

貞子目前在東京女子美術學校(譯注2)就讀,今年暑假回來,利用了一點時間作畫,所以我也不記得她畫的是什麼了。貞子去年剛從第一高女(臺北第一高等女學校,今北一女)畢業,臺展是首次送件參加。

女子高等學院的 伊藤(譯注3)多三子小姐

今年是第一次拿起畫筆,以前從來沒有畫過畫,畫了簡單的「山皂莢」。臺北女子高等學院(1931設立-1944閉校)好像有九個同學出品,有幾人入選了呢?我是今年剛從靜修女學校(今靜修高中)畢業的。

兄弟雙雙 入選的南風原先生

我們兄弟兩個都順利入選。我弟弟(朝光)是美術學校(譯注4)畢業的專業畫家,所以入選是應該的,而我只是一個素人(業餘愛好者),第三回的時候曾出品,沒想到落選了,一時氣憤,第四回就拒絕出品,但因為還是很喜歡畫畫,所以這次就出品三件,其中有一件入選。

附屬公學校的 篠田(譯注5)榮氏

順利突破第五回臺展的難關,榮獲新入選的第二師範附屬公學校的訓導篠田榮氏,記者到該校教官室拜訪時,有著白皙臉龐的青年篠田氏與同樣入選臺展的小川(勇)訓導一起被歡呼著:「恭喜!」的同事們圍住,臉上洋溢著新入選的喜悅,接受記者的採訪:

「此次有幸入選的《波切風景》是描寫紀州的海岸,這個夏天畫的,覺得不太可能會入選,但因為朋友建議,所以就送件參加了。畫畫是從小時候就喜歡,來臺灣之前,唸中學時就開始作畫。在臺灣是接受石川欽一郎氏的指導」。

此外,篠田氏還未服兵役,是個前途有為的青年。

吉川清江小姐(譯注6)

松尾翠(安東翠)小姐

一到學院就聽到入選的消息,好像是在做夢一樣!我那樣的畫居然能入選!

記者的吉報令臺北女子高等學院(1931設立-1944閉校)内揚起了一陣陣活潑爽朗的笑聲。

比起高興 覺得比較惶恐 黄天養氏談

記者到肥料貿易商黄玉對商行拜訪黄天養氏,他神色緊張地說:

「不,比起高興,反而覺得比較惶恐」。

天養氏從以前便對繪畫有興趣,但正式學畫是從昭和四年(1929)至去年(1930)的二月為止,在京都的黑田重太郎氏的私塾(信濃橋洋畫研究所(譯注7))接受指導。

「臺展是去年第一次出品,所以今年是第二次,是有入選的自信」。

黄氏臉上沒有笑容,表情顯得有些僵硬,但一坐到鏡頭(lens)前面,似乎還是掩飾不了湧上心頭的喜悅之情。

我自己本身 也有自信 林克恭氏談

以裸婦畫(《裸體》)出品臺展西洋畫部並得到入選殊榮,住在臺北市圓山町八六番地的林克恭氏(三十一歲)是林柏壽氏之侄,曾就讀劍橋(Cambridge)大學,後畢業自倫敦(London)大學美術部,於今年七月返臺。倫敦在學時,曾經入選皇家藝術研究院(Royal Academy of Arts,簡稱RA)展,關於這幅裸婦畫的臺展入選,林氏有如下的談話。

RA展曾入選一次,這次能夠入選臺展,叔父(柏壽)也替我感到高興。這幅裸婦是三年前去瑞士(Suisse)旅行時在當地繪製的,也是我自己本身相當有自信的作品。今後也希望能專心畫業,以求更加精進。

二十五日起 臺展一般公開 廿三、廿四日為招待日

臺展於(十月)二十二日下午四點在總督府一樓食堂舉辦自内地(日本)招聘的四位審査員和田(三造)、池上(秀畝)、矢澤(弦月)、小澤(秋成)的美術講演會。二十三日下午二點在舊廳舎(今欽差行臺)舉辦記者招待會與入選者招待會。二十四日為一般招待日,並於二十五日上午十點起公開展出十天。


嚴選をパスして喜ぶ 臺展初入選の人々

今までになき厳選が伝へられて、入選者氏名の発表は全島画家連から異常な緊張裡に待たれていたが二十一日午前十時、入選者氏名の発表場になる旧庁舎前には入選落選を気遣ふ人達の群が続々と詰めかけ婦人方の姿も交つて発表を待つてゐたが、定刻十時入選者氏名は旧庁舎大門前に張り出され、新入選を喜ぶもの、意外の落選に憂ひを抱いて帰路に就くもの等あり、発表場前は流石に悲喜交々の情を呈した一方臺展側では会場前発表と同時に全島出品者共に通知の発表を終つた、今回の審査振を見るに流石に厳選の跡、審査員の苦心の様が見え、選に入つた画は孰も一粒よりの絵で公開の上は従来よりも一層強き印象を観者に与へる事と思はれる、今年の著しき傾向としては新入選が例年に比し非常に多く西洋画に於ては入選五十点うち新入選二十二点、東洋画入選三十二点のうち十点を占めてゐることで第五回を迎へ愈々沈滞し勝ちな臺展に新しい空気を吹き込むものとして一般には喜ばれてゐるが、今回の厳選にも拘らず今回の臺展の難関をパスした初入選の人々は語る

『全く偶然です』 前田俊夫君語る

前田俊夫君は総督府の営繕課に勤務の青年建築技術家である、営繕課を訪ねると『そら臺日だ!』と御本人より周囲の人々の方が興奮した前田君を引張り出す有様だ、

『御感想を』と切り出すと

『全く予期しなかつた事ですよ、全く偶然ですよ』

を繰返すだけで込み上げる

悦びに 喉をつまらしたのか、頭ばかり掻いてゐる、顔一杯も喜びにくづれてゐる、前田君は去年の春福井高工の建築科を卒業すると直ちに営繕課入りした二十七歳の青年で建成町に老父母と三人で平和な家庭を営んでゐる学校時代には好んで水彩絵具に親しんだが油絵はどちらかと云ふと従の方であるさうで、今年も周囲から認められるままに水彩画一点油絵一点を出品し

非常に小さいものでありましたが水彩画の方が寧ろ私には自信があつたのですが

と此処でまた意外意外を繰返して頭を掻いた、入選作は臺北植物園の蓮池を主題にした「蓮池のある庭」である、前田君は今臺南高等学校本館の

設計に 従事してゐるのださうだか

自分の持つ傾向を活かして将来は住宅建築の方にも進んでみたい、油絵はこれから大いに勉強する

と輝かしい希望を持つてゐる、営繕課内は前田君を中心に、歓喜と興奮と友情のにぎやかな渦を巻いてゐる『オイ、食堂ぐらゐの価値はあるぞ』と言ふ声が聞える、前田君はまた頭を搔いてゐる事だらう

洋画は 一晩で描いた 小山武郎氏

今まで仙臺に居たんで今年始めてです、洋画はたつた一晩、五時間で女房をモデルにしたんです、何しろ裸体ですからね、東洋画は新公園で大きなものではありません、時間がなくて立派なものが出来ません、厳選だと聞いて居りましたからとてもだめだらうと思つて居ました

『もう絵に縁が ないと思つてゐた』 田部善子さん語る

東洋画「朝靄」を出して初入選の栄をかち得た女流画家田部善子さんを新富町のお宅に訪れると、令息を膝にのせたまま喜びに顔を赤らめ乍ら左の如く語つた

『私などもう絵などには見はなされたと思つてゐたのに入選したのですか、東京女子美術学校を出たのはもう忘れて了つた様な者です、六年位前だつたでせうか、好きなので時々筆をとつてゐるのです』

植物園の温室で 写生したんですよ 女子高等学院生の 周氏紅綢さん語る

臺展東洋画にオンシヂユーを出品して入選した周氏紅綢(一八)さんは昨年三高女を卒業、目下女子高等学院一年在学中であるが廿一日臺北市永楽町四丁目六十四番地の紅綢さんの家を訪れると、学校帰りの同嬢は達者な国語で嬉しさうに次の如く語る

今朝通知を貰つて始めて入選を知り母と共に喜びましたが、でもあんな下手なものが入選し得ようとは夢にも思ひませんでしたの、画題「オンシヂユ-ム」とは蘭の花の一種で本年七月中植物園の温室で写生したもので郷原先生にすすめられてしめ切り直前の十月十六日に出品しましたがこれが入選したと云ふ事は全く皆さんのお蔭でありますこれからも諸先生の総指導の下に東洋画についてみつちり研究したいけれども長女であるために東京に行つて勉強出来ない事を何より残念に思ひます

お母さんも 大喜び 佐藤淳一郎君

初入選の報を齎して佐藤淳一郎氏を文武町のお宅に訪へば、先づ玄関に出て来た母堂が令息淳一郎氏の入選を聞いて満面の喜びをたたへ乍ら『淳ちやん入つたとさ』と大声に淳一郎君を呼ぶと画筆を握つたままの青年淳一郎君も奥から出て来て『這入つたのですか』と非常な喜び方であるが母堂は次の如く喜びを語つた

此の子は去年まで東京の目白中学に入つてたのですが鼻を患つたのでこの夏から臺北に来て療治をしてゐるのですが元来画が好きで……然しまだ子供なのです

松本貞嬢は 東京にゐる 父君は語る

初入選の松本貞嬢を訪へば父君は語る

貞子は東京女子美術に居りますが今年の夏休みに来て一寸の間に書いたのです、私もどんなものであつたか覚えて居ない位ですから、昨年第一高女を出まして今年初めてです

女子高等学院の 伊東たみ子嬢

今年始めて筆をとつたので今まで絵なんて書いた事もなかつたのです、簡単な『さいかち』を書きました、女子高等学院では九名程出品された筈ですが何名位入選されたのでせう、静修女学校を今年出たばかりです

兄弟揃つて 入選の南風原さん

無事に兄弟とも入選しました、弟は美術学校を出ました本職ですから当り前ですが、僕は全くの素人です、第三回に出品しました時落選しましたから第四回には癪にさわつて出しませんでしたがやはり好きなものですから三点出しまして一点入りました

附属公学校の 篠原栄氏

第五回臺展の難関を見事パスした新入選の第二師範附属公学校訓導篠原栄氏を学校教官室に訪へば白面の青年篠原氏は同じく臺展に入選した小川訓導と、お目出度を浴びせかける同僚に囲まれ乍ら、新入選の喜びを満面にたたへ左の如く語つた

『今度は幸に選に入つた波切風景は紀州の海岸で此の夏描いたものです、選などには入らぬと思つたのですが友達の勧めに従つて出したのです、絵は小さい時から好きだつたので臺灣に来る前中学の初めから描きつづけてゐたのです、臺灣では石川欽一郎氏に教へて戴いてゐます』

尚氏は未だ徴兵前前途有為の青年である

吉川清江嬢

松尾 翠嬢

学院に訪へば、入選なんてまるで夢の様ですね、私あんなものが入選するなんて

記者の吉報によつて学院内は朗らかな笑ひで一つぱいになつた

嬉しいよりも 恐ろしい気がする 黄天養氏語る

肥料貿易商黄玉対商行に黄天養さんを訪へば

『いや、悦しいと云ふよりもかへつて恐ろしいやうな気がします』

と緊張した面地で語る、天養氏は前々から絵に趣味を持つてゐたのではあるが、正則に勉強したのは昭和四年から昨年の二月迄京都の黒田重太郎氏の私塾に学んだのみださうで

『臺展には去年初めて出品し今年は二度目ですが、入選の自信は持つてゐました』

と笑顔も見せない程堅くなつてゐたが、レンズの前に坐つた時は流石に喜びが込み上げて来るやうであつた

自分としても 自信があつた 林克恭氏語る

臺展西洋画に裸婦を出品して入選の栄をかち得た臺北市円山町八六番地林克恭氏(三一)は林柏寿氏の甥でケンブリツヂ大学を経てロンドン大学美術部を卒業し本年七月に帰臺ロンドン在学中はローヱル・アカデミー展に入選した事もあるが裸婦の臺展入選に関し次の如く語つた

ローヤル・アカデミー展に一回入選しましたが今回は臺展に入選する事が出来て叔父(柏寿)さんも喜んでくれてゐます裸婦は今より三年前スイスを旅行した時に同地で書いたもので自分としては相当に自信のある作品でありました之からも専心画道のために精進したいと思ひます

二十五日から 臺展一般公開 廿三、廿四日は招待日

臺展では二十二日午後四時より内地より招聘の和田、池上、矢沢、小沢の四審査員の美術講演会を督府一階食堂に開催、二十三日午後二時より記者招待会入選者招待会を旧庁舎に開催、二十四日を一般招待日として二十五日午前十時より十日間公開する由である

原載《臺灣日日新報》,1931-10-22 (夕刊2版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯注(1) 校名為「私立女子美術學校」,位於日本東京,於1900年創立,1919年改稱為「女子美術學校」,1929年再改稱為「女子美術專門學校」,1949年改制為「女子美術大學」至今。

譯注(2) 同前注。

譯注(3) 原文「伊東」的「東」為誤植。

譯注(4) 指的是「日本美術學校」,該校是由紀淑雄於1916年創設的私立專修學校,位於埼玉縣,原名「日本美術研究所」,1917年改稱,2018年閉校。

譯注(5) 原文「篠原」的「原」為誤植。以下同。

譯注(6) 可能漏植採訪內容。

譯注(7) 1924年由鍋井克之、國枝金三、黑田重太郎等人在大阪信濃橋(現西區靱本町一丁目)的日清生命大樓内設立。1931年遷至中之島的朝日大樓,改稱「中之島洋畫研究所」。1944年關閉。