直到榮獲臺展的特選
第二名 臺北 郭雪湖
我從孩童時代就喜歡畫畫,也曾希望自己可以跟隨良師好好學習,並成為專業畫家謀生,但由於家庭的因素,無法得償所願,所以在公學校畢業時,經過了一番思考,決定接受經師(裱畫師傅)的工作,因為可以接觸到許多傑出的繪畫,而且工作之餘一有空檔就可以隨時
◇拿起畫筆 作畫自娛。對於像這樣的我而言,昭和二年(1927)的那個第一回臺灣美術展覽會的舉辦,無疑是給了「像自己一樣的無名小卒的登龍門」的美好希望,便心想:
「好,我雖然沒有正式學過畫,但一定要設法出品看看」。
從一進入夏天,就開始一心作畫,直到搬入日,最後完成了三件作品出品,當終於看到發表的入選者名單時,東洋畫的部分,本島(臺灣)人的入選僅三名,很慶幸的是我也是其中之一。那些有名的畫家們都全軍覆沒,反而是
◇無名小卒 的我入選了,聽到這個消息時,喜悅之情如同登天。然而,一旦作品公開展出,那些落選的人們便開始口出惡評,例如「郭雪湖的入選作品,是由別人代筆的」或甚至說「這次的入選只是偶然而已,等著看第二回吧,他一定會被踢下來的」等等,聽到這類的辱罵,我便下定決心:
「好,我明年也一定要入選給他們瞧瞧!而且作品還要比今年的更好」。
但可惜我並沒有跟隨良師習畫的多餘財力,一時之間不知如何是好,感覺走投無路,這時,腦中突然浮現的是
◇圖書館。 於是,我往返圖書館的生活開始了,不分晝夜,只要一有時間,就去圖書館報到。圖書館這邊也對我的決心表示理解,並釋出善意,連「特別室」也開放讓我進去使用。我在圖書館主要是鑽研有關新東洋畫的畫集或畫論,也會模仿古人的名畫,研究新的畫法等等,拼了命地學習。終於迎來了第二回的臺展,我出品了比前一年還大一倍的大型作品《圓山附近》,而此畫的入選或落選,是捍衛或毀掉我前一年名譽的分界點,所以我真的是豁出去了。總算發表了!入選!入選!
◇再次入選 !此次的入選,我比第一回的時候更感到高興。而且我的畫被選為「特選」,還是此獎項的首席(第一名)。收到這個吉報時,我嚇了一跳,還以為自己在做夢呢!然後讓我深切感受到的是圖書館的可貴,對於無法跟老師學畫的我而言,能得到此等的榮譽,全拜圖書館所賜,圖書館才是我的無二的良師。因為有此名譽,前一年的辱罵惡評也全部自動消音,我之後也還是把圖書館當做自己的學校,繼續往返學習,時至今日,已有榮獲三次「特選」、兩次「臺展賞」的佳績。(完)
圖書館利用實話(二) 全島に亙り募集したもの
臺展の特選になる迄
二等 臺北 郭雪湖
私は子供の時から、絵を描くことが好きで、若出来ることなら良い先生について、しつかり勉強して、画家として身を立てたいと願つてゐましたが、家庭の都合で思ふやうにもならないので、公学校を卒業した時、色々と考へた上、立派な絵に接することが多いといふので、経師職となりました、そして、その仕事のかたはら、折りさへ有れば
◇画筆を執 つて楽んでゐました、かうした私にとつて昭和二年の、あの第一回の臺灣美術展覧会の開催は『自分のやうな無名の者の登竜門である』との輝しい希望を与へられたのでした
『よし、自分は、正式の勉強こそしてゐないが、どうかして出品して見やう』
と考へて、夏の初めから、一心に描き初めて、搬入までに、たうとう三点を完成しました、いよいよ入選者が発表されたのを見ると、東洋画に本島人の入選は僅かに三名でした、ところが幸ひにも、その一人として、私も選ばれたのでした。有名な画家達が、枕をならべて落選したのに
◇無名の私 のやうな者が入選したと聞いた時は、天にも上る心地でした、ところが、公開されるや、落選した人達などから、何かと悪評が出て、中には、『郭雪湖の入選したのは、他人が代筆したものだ』とか『今度の入選は全く偶然なのだ、第二回を見ろ、彼はきつと蹴落とされるから』とか言ふものさへあつたのでした、是等の悪罵を聞いた私は、
『よし、来年も、きつと入選して見せる、今年よりも、もつと立派に描いて見せる』
と覚悟をしました、しかし、残念なことには、良い先生について学ぶだけの余裕が有りません、一時はどうしたらよいかと、途方に暮れました、その中に、ふと気付いたのは
◇図書館 でした、それから、私の図書館通ひが始まりました、夜も昼も暇さへ有れば図書館へと足を運びました、図書館でも、私の決心を知つて下さつて、御好意を以つて、特別室をも見せて下さいました、私は、図書館で主として、新らしい東洋画に関する画集や、画論、又、古人の名画を模倣しては、新らしい画法を研究する等、必死になつて勉強しました、愈々第二回が来ました、私は、前年に倍した大幅『円山附近』を出品しました、此及落こそ、前年の名誉を確かにするか或は破るかとの界です、私はほんとに一生懸命でした、発表!入選入選
◇再び入選 此入選こそ第一回にも増した喜びでした、然も、私の絵は遂に特選として選ばれ、その上その首席にさへ置かれたのでした、此吉報を手にした時の私は、ほんとに夢かと驚きました、そして、しみじみと考へたのは、図書館の有難さでした、先生について学ぶことの出来ない私に、此栄誉をになはせて呉たのは全く、図書館で、図書館こそ私にとつては、無二の良師で有つたのでした、此名誉によつて、前年の悪罵悪評も全々消えてしまひました、私は、其後も図書館を自分の学校と思つて、引続いて通つては勉強をして、今日に至るまでに、特選三回、臺展賞二回といふ成績を収めたのでした(終)
─原載《臺灣日日新報》,1932-01-16 (日刊6版)
(辨識、翻譯/李淑珠)