作為第四回臺展審査員於(十月)十六日來臺、投宿臺北市目之丸旅館的南薫造和勝田蕉琴

兩畫伯 才剛解開行李不久,就出席十六日下午七點在濟美會館(譯註1)舉辦的「話臺展」座談會活動,會中聽取尾崎秀真、營繕課技師井手薰(譯註2)等人說明舊廳舎(今欽差行臺)成為臺展會場的經過和觀賞東臺灣的影片(film),十七日上午十點與島内(臺灣在住)審査員一同參拜臺灣神社,途中兩畫伯都對臺灣的自然美讃嘆不已,十一點再搭乘汽車前往展覽會場的舊廳舎,審査員石川欽一郎、鹽月桃甫、鄉原古統和社會課長野口敏治一起進行會場

的預覽 。針對會場,兩畫伯異口同聲地讃嘆道:

如果一個一個仔細檢查,當然也找得到不滿意的地方,但這裡比其他現成的建築物(building)好很多。

再看到兩端翹起的屋簷,說道:

這屋簷的調和感如何?很有南國熱帶的氣氛,既令人印象深刻又十分沉靜調和。在這種地方展出的畫作應該也會很生動吧!

此外,十七日下午七點去拜訪審査員長幣原坦並共進晩餐。兩位畫伯在本島(臺灣)的停留時間及視察行程還不清楚。

臺展鑑查為 十八、十九日兩天 二十五日起一般公開

臺展於(十月)十六日搬入結束,十七日上午十一點南薫造和勝田蕉琴兩位審査員會同島内(臺灣在住)審査員進行會場預覽,作品的鑑査為十八、十九日兩天,由審査委員長幣原坦以及六位審査委員出席並嚴正進行。此外,二十三日下午為記者招待預覽,二十四日為招待日,自二十五日起一般公開十天。


來臺の兩審查員 『南國の美』を讃嘆 十七日は會場で下見

第四回臺展審査員として十六日着臺、臺北市目の丸旅館に投宿した南薫造、勝田蕉琴の

両画伯 は旅装を解く暇もなく十六日午後七時からは済美会館に於ける『臺展を語る』座談会に出席、旧庁舎が臺展会場となるまでの尾崎秀真、井出技師等の話、東臺灣のヒルム等を見たが、十七日は午前十時島内審査員と共に臺灣神社に参拝両画伯共臺灣の自然美に讃嘆の声を放つたが、十一時には再び自動車にて展覧会場たる旧庁舎に赴き石川、塩月、郷原の審査員、野口社会課長と共に会場の

下見を なした、会場に就ては両画伯共口を揃へて讃嘆し

箇々の点を数へ立てれば不満の点も出ませうが、出来合ひのビルデングなどより遥に優れてゐます

そして家根の反り具合を見乍ら

あの家根の落着具合はどうですしつくりと南国的な気分が出てゐて、しんみりとさせる機に落着いてゐますね、これでは絵も生きるでせう

と語つた、尚十七日午後七時は幣原審査員長を訪れ晩餐を共にする筈であるが、両画伯の本島滞在日時並に視察日程は未だ不明である

臺展鑑查は 十八、十九の兩日 二十五日から公開

臺展では十六日で搬入も終り、十七日午前十一時には南、勝田両審査員並に島内審査員の会場下見があつたが鑑査は十八、十九の両日幣原審査委員長始め六審査委員出席の上厳正に行はれる筈である、尚二十三日午後は記者招待下見二十四日は招待日に当られ二十五日より十日間公開される筈である

原載《臺灣日日新報》,1930-10-18(夕刊2版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯注1. 「濟美會」的正式名稱為「恩賜財團臺灣濟美會」,大正十二年(1923)五月成立,以天皇下賜的金十萬圓作為財團法人設置基金,負責社會慈善事業以及教育獎勵。

譯注2. 查閱總督府職員錄,該年「技師」職務並無「井出」的姓氏,故原文應為「井手」之誤植。而且井手薰為臺展幹事(例如參見〈臺灣の秋を飾る 臺展の新陣容 役員その他決る 長官邸の茶話〉(點綴臺灣之秋 臺展的新陣容 幹部及其他名單確定 長官官邸的茶話會) ,《臺灣日日新報》1928年9月5日夕刊版2),也是之後臺展固定會場的教育會館的設計師,與臺展有密切的關係。