一次入選六名 女子高等學院 校長及師生皆大歡喜
女子高等學院剛好(十月)二十日開始進行定期考試,上午八點半左右正是考試的時間,同學一邊惦記著入選發表,一邊用鉛筆急切地在答案卷上作答。當吉報傳來學校,吉川(貞次郎)校長及師生皆大歡喜,除了初入選的中部正子、彭蓉妹、邱金蓮、林阿琴、橫尾七瀬等諸位之外,去年曾入選的松尾翠同學的作品《紅竹》這次也得到了入選,尤其是自臺展開辦以來毎年都有出品卻不曾入選的天才少女吉川清江同學,這次以《月下美人草》順利奪得了初入選的殊榮,還有一邊幫忙市來栞(譯注1)女士擔任其模特兒(model)一邊洗刷了去年落選恥辱的陳雪君同學等等。記者借用了一點考試的時間帶攝影機(camera)進教室採訪,每個人都一臉難掩喜悅之情地表示:
「我們學院果然成績斐然,去年有兩名入選,今年竟然有八名,這學期的考試也一定都會滿分吧!」
第一次出品 就順利入選 山崎文子同學笑容滿面
山崎文子同學是住在臺北市榮町的醫學博士山崎蓊的愛女。入選一發表,記者就到山崎家採訪,先是其父笑嘻嘻地跑出來開門,文子同學聞訊後也欣喜不已。文子同學自第一高女(今北一女)畢業後,曾在鳩山春子女士的共立女學校(今共立女子大學)就讀,目前與父親同住,最近拜田部蕉圃女士為師,開始學習日本畫(東洋畫),今年以《牽牛花》首次出品臺展,就獲得了入選的殊榮。
母親 欣喜不已 松島蔦子氏
記者到臺北市川端町拜訪松島蔦子氏時,其母滿面笑容地先出來接受採訪。松島氏剛從第一高女(今北一女)畢業,一邊幫忙家務,一邊跟隨田邊蕉園女士學習東洋畫,與山崎文子氏一樣今年是第一次出品,出品的兩件畫作之中的《夾竹桃》榮獲入選。
因專長的洋畫 落選而感到意外 陳慧坤氏
陳慧坤氏出生於臺中州大甲郡龍井庄,畢業於昭和六年(1931)東京美術學校(今東京藝術大學)的師範科。其題名為《無題》的東洋畫作品榮獲入選。陳氏目前正在臺北,目的是要親眼察看在教育會館發表的入選名單,在接受記者採訪時表示:
畫這種東西真的很難說,我的專長其實是洋畫(西洋畫),這次洋畫和日本畫(東洋畫)的兩個畫部都出品了,結果洋畫落選、東洋畫入選,實在是很意外。
其語氣中充滿了喜悅之情。
擔任衛兵站崗時 看到麻雀們的嬉戲而得到靈感 一聯隊一等兵的間宮正氏
間宮正氏是(臺灣步兵)第一聯隊的一等兵,在繁忙的軍務之餘出品兩件畫作,據說是在聯隊長的官舎,僅花了三天的時間便完成,其中一件榮獲入選,畫題為《小邊(譯注2)嬉雀》,是間宮氏在擔任衛兵站崗時看到麻雀們的嬉戲而得到了創作的靈感(hint),並將之入畫。臺展是初入選,但去年和前年都曾經入選過帝展,年僅二十二歳,父親也是畫家,號武峰,正君師承帝展審査員野田九浦氏,對於記者的提問:「將來有成為專業畫家的打算嗎?」,他以立正不動之姿回答:「是的,當然有此打算」,並面露喜色地表示:「我從昨天就一直等著入選名單的發表,因為沒辦法親自去發表現場,真是苦等了好久啊」。
為寫生而來臺灣 末延柳萠氏
末延柳萠氏是美術學校畢業的畫家,來臺灣是為了進行寫生,日前抵臺,寓居臺北市東門町。末延氏在東京追隨蔦谷龍岬氏、在京都追隨都路華香氏學習日本畫,經常入選内地(日本)的展覽會。
一邊手執教鞭 一邊進行創作 成富禮正氏
以二十五號大的《大稻埕的後街》榮獲初入選的成富禮正氏,在(臺北)市内的壽小學校(今西門國小)擔任教職:
「我至今已出品多次,但毎年都落選,很是失望。本以為今年也一樣沒希望,但剛才有人過來通知我入選的消息,總算可以安心了。到去年為止,我是追隨石川欽一郎氏習畫,今年打算跟隨陳清汾氏畫看看」。
從開始學畫 剛滿一年 室谷早子氏
記者到鐵道部運輸課採訪擔任切符(車票)倉庫職員的室谷早子氏。室谷氏於第一高女(今北一女)在校時是網球(tennis)選手,曬黑的膚色看起來非常健康,她一臉笑嘻嘻地表示:
「托您的福,我才能入選。從開始學畫,剛滿一年。《盆栽棚架》因為動筆比較晚,一直畫到搬入日的(十月)十六日早上才完成,而且都沒有請人先過目,就自己一個人搬入了。得以入選,我想鹽月(桃甫)老師一定也會很高興吧」。
初入選の喜び
一ぺんに六名 女子高等学院では 院長を初め大喜び
女子高等学院では丁度二十日から定期試験が始まつて午前八時半頃は試験の真最中、発表を気にしながら答案に鉛筆を走えあせてゐた、吉報を貰せば吉川学院長始め皆大喜び、初入閣の中部正子、彭氏蓉妹、邱氏金蓮、林氏阿琴、横尾七瀬の諸嬢の外昨年も入賞した松尾みどり嬢の『紅竹』が入つてゐる、殊に臺展始まつてより毎年出品されてゐるが入選した事のないと云ふ月下美人草を画いて美事入選の栄をかち得た天才少女吉川清江嬢、市木シヲリ女史をたすけてモデルになるかたはら昨年の恥を雪いだ陳氏雪君嬢等等、試験の時間を割いてカメラに入る、何れも包み切れぬ喜びを面に見せながら語る
「やつばり学院は成績がいいわね、昨年の二名に比べて今年は八名も入選したのですもの、本期の試験はきつと満点よ」
初めて出して 見事に入選 山崎文子嬢ニコニコ
山崎文子さんは臺北市榮町の山崎医学博士の愛嬢である、入選の報を齎らして記者が往訪すると、先づお父さんが飛び出して流石に喜色満面、文子さんが大ニコニコ、文子さんは第一高女卒業後、鳩山女史の共立女学校に学び、今は父君の下にあり、田辺蕉園女史に就いて最近日本画を習ふぃ始め、今年始めて出品した朝顔が入選の栄を荷なつた訳である。
お母さんが 大喜び 松島蔦子嬢
松島蔦子さんを臺北市川端町に訪ふとお母さんが先づ大ニコニコで代つて答へる、第一高女を先頃卒業、家事の傍ら田辺蕉園女史に就いて東洋画を習ひ山崎文子さんと同じく今年始めて出品、二点の中夾竹桃が入選した
専門の洋画が 落ちて意外 陳慧坤氏
陳慧坤氏は臺中州大甲郡龍井庄に生れ昭和六年東京美術学校の師範科を出た、無題と言ふ東洋画が入選した、氏は目下来北中、教育会館に発表を見に来てゐたが語る
画と云ふものは分らないですね本当は私は洋画の方ですが今度洋画と日本画を両方出しましたが洋画が落ちて東洋画が入選したのは実に案外でした
と喜んでゐた
衛兵をしながら 雀の戯れにヒントを得た 一聯隊の一等兵、間宮正さん
間宮正さんは一聯隊の一等兵君、忙しい軍務の間に二点を出品、聯隊長の官舎で僅か三日許りの間に仕上げたといふが一点とも入選してゐる『山辺嬉雀』は衛兵をしてゐる中に雀の戯れるのにヒントを得て書いたといふから振つてゐる臺展では初入選だが、帝展には去年も一昨年も入選して居る、年は僅か二十二歳、父君も武峰と号する画家、君の師は帝展審査員野田九浦氏「将来、画を以て立たれる積もりですか?」と記者が問へば直立不動で「ハツ、勿論でありますツ」「昨日から発表を待つて居た、見に行けず待ち遠であつた」と喜色満面
写生しに来臺 末延柳萠氏
末延柳萠氏は美術学校出の画家、臺灣で写生をする為めに先頃来臺臺北市東門町に寓してゐるが同氏は東京で蔦谷龍岬氏に、京都で都路華香氏に就いて日本画ををさめ内地の展覧会にも度々入選してゐる由
教鞭を取る 傍ら描く 成富礼正氏
二十五号大の『大稲埕の裏町』が初入選した成富礼正氏は市内、寿小学校に教鞭をとつてゐる
「今まで度々出品したのですが毎年落選で悲観してゐたのです今年もとても駄目だらうと想つてゐたのですが今知らせて呉れた人があつてやつと安心した所です、昨年まで石川欽一郎氏について習つてゐたのですが、今年からは陳清汾氏について画いて見やうと思つてゐます」
絵を始めて 丁度一年 室谷早子嬢
鉄道部運輸課切符倉庫係に室谷早子嬢を訪へば第一高女在学中テニスの選手だつただけに日焼けした健康さうな顔をニコニコさせながら
「お陰様で入選出来ました、画を始めてから丁度一年になります『植木棚』を書き始めるのが遅かつたものですから搬入日の十六日の朝までかかりました、そして誰にも見て戴かずに一人で搬入したのです、塩月先生もさぞ喜んで下さる事でせう」
—原載《臺灣日日新報》,1932-10-21(夕刊2版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注1. 原文「市木」為「市來」的誤植。而市來的名字「栞」,讀音為「Shiwori」,常以「シヲリ」或「シオリ」、「しをり」、「しおり」來標示,而非漢字。
譯注2. 臺展圖錄上的作品名稱為《小邊嬉雀》,故原文的「山邊」應為誤植。