臺灣教育會主辦的「關於臺展審查」的演講會,(十月)十三日下午七點開始在本社(臺灣日日新報社)講堂舉辦,聽眾約二百名,杉本(良)文教局長首先發表開會之辭,介紹了此次為第三回臺展審查而招聘的小林(萬吾)、松林(桂月)兩位審查員之後走下講壇,其次是和服裝扮的松林審查員表示雖然無法分享旅途見聞,但可以就進行審查時所感受到的事,聊述一二,作為開場,內容如下。

美術家以敏鋭  神經的活動最為重要
說明繪畫的法則 小林萬吾氏

我是擔任西洋畫的審查,看到出品畫一年比一年優秀,真是令人高興(開頭先客套一番),不過,想向各位說明的是,美術家應該要讓敏鋭的神經時時刻刻都在活動狀態。例如畫與畫框的關係,兩者之間的調和,決不可等閒視之。或者有些人把畫畫得過頭,也有些人畫得不夠。又或者當畫在完成階段,這時非常重要,必須思考放下畫筆的時間點,因為我們只需眼睛一瞥便可將大自然納入胸懷,而將之再現於畫布(canvas)上的時候,決定畫作完成的那一瞬間,也只需眼睛一瞥畫布即可。其次,例如畫必須是在對描寫對象心懷感激之下完成不可,沒有感激的畫,就像是喪失靈魂的人臉。其次,例如畫的筆觸(touch)必須予以全部統一,年輕畫家經常只模仿大師的優點,並在同一個畫面上予以表現,例如莫內(Claude Monet)的天空、塞尚(Paul Cézanne)的山丘、雷諾瓦(Pierre-Auguste Renoir)的人體等等,然而,我們在該畫面上看不到所謂的統一,此外,在配色的統一上,情況也是如此。以上是繪畫的一般法則,不管是誰都必須遵守,法國十九世紀的印象派,對畫界進行了大改造,但即使是他們也一樣遵守了如同上述的繪畫規則。最近又出現了一群追求前衛表現的畫家,打破了自古以來的傳統,在創作上完全擺脫了名為自然的描寫對象,但連他們也同樣沒有打破上述的繪畫法則。又,最近立體派(Cubism)等等的近代畫派的畫作,也在巴黎的秋季沙龍(Salon d’automne)(譯註1)上展出,誰也不知道畫的是什麼,即使詢問該畫作者也不得其解,但與此相反的是,那些近代畫派的畫家在學習古典畫派(classic)上卻是不餘遺力。創作近代畫派的畫的有超過二萬人,但在這群畫家中,有些人之所以如此只是為了成名,這點我們必須了解。作品簡潔且格調高尚的馬諦斯(Henri Matisse)在年輕時,針對繪畫的法則(表現美的條件)也非常努力地學習。如同以上所述,希望畫家們能充分注意並努力學習繪畫的法則,談到這個,在此衷心希望臺灣也能成立繪畫研究所。

個性的表現正是 藝術的可貴之處
感嘆類型盲從 松林桂月氏

此次(東洋畫)的審查,令人感到不可思議的是漢畫系的作品居然如此稀少。本來就地理上的關係來看,臺灣應該是隸屬於支那(中國)南方的畫系,即南宋畫的系統,但端看搬入的作品,南宋畫少之又少,不僅如此,整體的氣氛反而逐漸傾向內地(日本)畫壇的延長,這點令人感到寂寞。南宋畫本來是在楊子江(長江)以南得到發展的畫種,相對於畫院的北宋畫,自由展現自我之處,為其特色,而且這種個性的優異表現正是藝術最為可貴之處。儘管如此,近來不知是否是交通發達之故,就連帝展,個性也逐漸被淡忘,同一類型的作品則越來越多。這個現象若從別的角度來看,只以入選為目標,連自己的人格也完全無視,只製作容易入選的畫,這種藝術家不該有的態度,也助長了這個現象,不是嗎?萬一真是如此,我們便必須好好反省一番。在日本,有上述主張的,特別是田能村竹田,曾云:描繪風景時,描繪的若不是胸中的山水,就稱不上是一幅畫。畫是闡述各人性情之物,這種精神在東洋畫方面,尤其是在南畫、水墨畫之中最常被表現,但這種水墨畫不管在臺灣展(臺展),還是在朝鮮展(鮮展)(譯註2)都非常稀少,實令人遺憾。盲從實不可取,藝術家應該要立足於自尊自重之上精進藝術才是。我由衷盼望今後臺灣展覽會能因為真正的藝術家的存在而越來越加隆盛。


小林、松林兩氏の 臺展審查に就ての感想 ─十三日本社講堂での講演大要─

臺灣教育会主催の『臺展審査に就いて』の講演会は十三日午後七時より本社講堂にて開催聴衆約二百名、杉本文教局長は開会の辞について今回第三回臺展審査の為招聘された小林、松林両審査員を紹介して降壇、次いで和服姿の松林審査員は旅窓まとまつた話も出来ませんが審査に当つて感じた事の二三を述べると冒頭して左の如く語つた

美術家は鋭どい 神経の働きが肝腎
絵の法則を説く 小林万吾氏

私は西洋画を見たのであるが年は年を追つて優れたものゝ出るのは嬉しい(と冒頭しつゝ)なほ皆なに申上げたい事は美術家は鋭い神経をくまなく働して戴きたい、例へば絵と額縁との関係の如きものでもその調和は決しておろそかに出来ぬものである、又筆の加へ過ぎてゐる者、加へ足らない者もある、又絵の仕上げ時と云ふものは非常に大切で如何なる時に筆をおくべきかは考へねばならぬ問題であるが我々は眼の一撃で自然を見それをカンパスに載せる様に仕上時の見はからひも又カンパスを目で一撃することに依つて解る、次に又絵は常に対照物に対する感激の持続してゐるうちに描き了つたものでなければならぬ、感激のない絵は魂の抜けた人の顔の様なものであらう、次に又画のタツチは全面統一されてゐなければならぬ、若い人々はよく大家のよい所だけをまねて一画面に書き表さうとする、例へばモネの空セザンヌの山、ルノアールの人体をと云ふ様に。然し我々はそこには統一といふものが見られない、又色の配合統一もその通りである、以上は画一般に対する法則であるから誰しもこれだけは守らねばならない、フランス十九世紀の印象派は画界の大改造をなしたのだが彼等も矢張り以上の如き画の規則だけは守らない訳に行かなかつたのだ、此頃は又古来の伝統を破り自然そのものゝ名称のついたものを描くことから全然離れた画家の最も新しい一群が出たが彼等も又以上の画の法則を破つてはゐない、又近頃はキユービズム等々の近代派の絵がパリーのサロン・ドートンヌあたりにも出るが何を書いたのか誰にも解らぬ、書いた人に聞いても解らぬというふ反面にその近代派の人々はクラシツクの勉強に余念がないのだ、近代派の画を描くといふのは二万を超える画家群の中から何とかして名をあげようとする一策から来てゐる様に思はれることを我々は考へねばならぬ、簡潔にして品のいゝマチスも若い時代には画の法則(美をあらはす条件)について非常に勉強したのである、以上の如くであるから画の法則と云ふことには充分注意もし勉強もして欲しい、がそれにつけて思ふことは臺灣にも絵画研究所の出来る事を願つて止まぬ次第である

個性の現はれこそ 芸術の尊ぶ所
類型追従を嘆す 松林桂月氏

今回の審査に当つて不思議に思はれたのは漢画系の作品の少ない事である、元来臺灣は地理的関係から見ても支那南方の画系即南宋画の系統が入つて居なければならぬ様に思はれるのであるが搬入品をみると南宋画はまことに少い、のみならず全体の空気は寧ろ内地画壇の延長へと傾つつあるのは淋しい気がする。元来南宋画は楊子江以南に発達したもので、画院の北宋画に対し自由に自性をあらはす所に特長がある、然もこの個性の優れた現れこそ芸術の最も尊ぶ所であるに拘らず、近来は交通の発達の為かどうか帝展に於てすら個性は次第に忘れられて類型的なものが多くなつて来た、之を一方より考へると入選をのみ事とし自己の人格をも無視して入選しさうな絵をかゝうとする様な芸術家にもあるまじき態度も手伝つてそうなつたのではあるまいか、万一さうだとすれば、我々はよくよく考へてみなければならない日本でも特にかゝる事を主張したのは田能村竹田で風景を描く場合にも胸中の山水を描かねば絵とは云ひ得ないと教へてゐる、絵は各人の性情を述べるものである。然もこの精神は東洋画では南画、水墨画の中に最もよくあらはれてゐるのだが然もこの水墨画は臺灣展朝鮮展にも非常に少ないのは残念である。追従すべきではない、自尊自重の上に立つて芸術に精進すべきである。私は今後とも臺灣展覧会が真の芸術家によつて益々隆盛になることを心から願ふものである

─原載《臺灣日日新報》,1929-11-15(夕刊2版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 1903年以來每年在法國巴黎舉行的藝術展。其創立是為了對抗官方的巴黎沙龍(Salon de Paris,1667-1880),積極介紹各領域的前衛藝術家與新進藝術家,尤以1905年的展覽會催生了野獸派(Fauvism)聞名。

譯註2. 朝鮮美術展覽會,簡稱鮮展,由朝鮮總督府主辦,1922年第一回展。