石川欽一郎
我記得這是發生在明治二十五、六年(1892、93)左右的事,當時我們有一個名為「明治美術會」的西洋畫團體,該會在日本橋八町堀的「銀行集會所」舉辦了一場針對裸體畫的討論會。集會所二樓的空間很大,故借此處作為討論會的場地,至於議題,則是討論裸體的繪畫和彫刻是否會傷風敗俗。
我當時還只是一介書生,聽說前輩的彫刻家及畫家們特地聚集在一起討論這個以裸體為題材的彫刻或繪畫對於社會風俗是否有害的議題,便前去聆聽,現在回想起來覺得頗為幼稚。至於描寫裸體的彫刻或繪畫是否會傷風敗俗,總之,只淪為了有害的有害、無害的無害這種窮極無聊的爭論,討論會最後也草草地結束。不過,像這樣,裸體描寫的彫刻或繪畫引發各種議論,表示此類藝術引起了我們藝術家或觀者的注意,也說明社會輿論開始針對裸體繪畫.彫刻或多或少有了一些想法。
在此之前,裸體描寫的彫刻或繪畫還未曾在公開場所展示過,頂多偶爾將從國外帶回來的裸體的繪畫或彫刻以「參考品」的名義陳列(展示)而已。其實,即使是穿戴衣物的藝術作品,一樣是對風俗有害者有害、無害者無害,這似乎是與製作該作品的作家的感受有關,而作家將其感受在製作上表現出來,所以結論就是比起眼睛所見,該作品的精神表現更為重要。
應該是明治二十九年(1896)的時候,白馬會出品了黑田清輝氏的裸體畫(譯注1),這是我國(日本)在公開場所第一次展出裸體畫。這幅裸體畫描繪的是一名西洋婦人,畫作尺寸相當大,應該有六尺左右,是黑田氏在巴黎時揮筆創作而成,而且是出品當地沙龍(salon) (譯注2)之作品。那是一幅什麼樣的裸體畫呢?畫面描寫的是一名西洋婦人的晨間梳粧,全裸面對著鏡子,正在梳理頭髪。
婦人並非是全身的描寫,腰部以下的小腿只看得到一半,並以背面之姿呈現,前面的鏡子裡隱約可見婦人身體的正面(譯注3)。當時此畫雖然成為了議論的焦點,但因為是出自黑田氏之手,加上是沙龍的出品作品,也絲毫沒有傷害風俗之表現,所以決定直接予以陳列。適逢明治三十年(1897)内國勸業博覽會(譯注4)在京都舉辦,當時黑田氏是審査委員之一,因為是審査委員出品的裸體畫,按理說應該沒有異議的餘地,但在京都這種保守的地方,突然要展出裸體畫作,爭議於是再起。然而,黑田氏表示若此畫無法出品,自己將辭去審査委員的工作,所以最後的結果是得以順利出品。此時,意外地,不,應該不是意外而是事先安排好的行程才對,即明治天皇陛下將駕臨該博覽會。為此,這幅裸體畫再次被搬上檯面,因為要讓此畫入天皇的御眼,實在令人誠惶誠恐,於是有人建議將此畫撤下。但黑田氏表示在巴黎都能出品沙龍了,所以不會有任何差池,堅持若撤下此畫,自己將辭去審査委員,使得問題更加複雜,既不能撤下,也不能放置不處理,最後是在天皇駕臨之際,在畫上蓋了一條白布,以免有礙陛下的御眼。當時有份《日本每週郵報(Japan Weekly Mail)》(譯注5)的英文報紙,其「社説」欄,現在回想起來十分有趣,內容是針對黑田氏的裸體畫,有如下的論述:「話說裸體畫這種東西,尤其是婦人,並不喜歡被人看見其裸體,何況將之畫於畫面上,還陳列在公衆之前,甚為不妥」。此外,本籍法國的新聞記者、本身也是畫家的比戈特(Georges Ferdinand Bigot),在横濱附近發行的外國雜誌上畫了一幅諷刺畫(caricature),我記得畫的是在黑田氏的裸體畫之前,有一群從鄉下來看熱鬧的阿公阿婆,還有一個把和服下擺往上拉到腰間的鄉下女人,他們看到此畫時都驚訝到嘴巴合不攏。總之,此幅裸體畫在社會上引起了很大的騷動(sensation),這是不爭的事實。
自此之後,白馬會也出現了愈來愈多的裸體畫。
白馬會的展覽會經常在上野公園舉辦,警察這邊也開始取締裸體畫,但並沒有一定的取締方法,只是從下谷(譯注6)的警察署來的警察官親自到展覽會場檢閱作品而已,這種作法時至今日也沒什麼改變。而當時的署長依情節輕重予以斟酌,處置有時寬鬆、有時嚴厲,例如另外設置「別室」(特別室)陳列裸體畫並限制只開放給美術研究者或特殊人士欣賞,而別室的入口處通常備有一本簽名簿,來賓必須在上面簽名之後才能進入室內賞畫,或僅在裸體畫上蓋一條白布遮住腰部等等。這在今天看來,令人覺得真是可笑至極,因為裸體畫的其他部分可以觀看,而不宜觀看的部分就用白布遮住畫面。彫刻也是同樣用布遮起來。然而,這種作法其實反而讓畫看起來更為猥褻,亦即,謹慎行事反而招致不謹慎的結果,像這樣,在當時出現了各種滑稽之事。
又例如在與我有關的洋畫(西洋畫)團體「巴會」(譯注7)的展覽會上,五姓田芳柳氏出品了一幅小幅的水彩畫,內容是鄉間民家庭院的寫生,因為是鄉下,所以浴盆放在屋外,剛好有一個鄉村婦女正在入浴,但那只是一個小小的點景人物。這幅畫的尺寸極小,人物大概也僅半寸大,所以畫作的目的並非是入浴的描寫,只是在鄉下民宅的情景中正好有如此的人物描寫而已。
我們其實完全沒注意到這個描寫,直到來檢閱作品的警察官立即察覺並命令將此畫撤下。現在,對畫作的取締寬鬆了許多,這可能是因為警方的眼睛已經逐漸習慣,不再那麼敏感的關係吧!
究竟畫家為何要畫裸體畫?這必須追溯至古代,希臘彫刻的眾神之雕像,例如維納斯(Venus)或阿波羅(Apollo),若以著衣形式呈現,將無法表現出其身體的完美姿態或美感,因此,有很多外國的裸體畫或彫刻以裸體形式呈現,其目的都是為了表現上的需求。而論及裸體曲線之美的,例如英國畫家賀加斯(William Hogarth),活躍於十七世紀末到十八世紀中葉左右,此人推崇所謂的曲線之美,認為除了人類的身體,沒有任何東西的曲線更美。曲線之美(Lines of Beauty),特別是曲線之中有S形狀的最美,這就是賀加斯的主張。我們研究裸體的曲線,練習人體素描(dessin),我自己本身並不太畫裸體畫,但作為研究的手段,畫家都會使用人體模特兒(model),但日本人模特兒的身體,肌膚顏色一點也不美,各部位的比例(proportion)也欠佳,所以畫家多少都會改變日本人模特兒的體形,描繪其裸體如同描繪西洋人模特兒一般,例如腳不夠美的,把它修飾地更美,肌膚顏色不好的,把它修飾地更好,或因為畫室太冷導致身體整個泛紅的話,就只把靠近暖爐(stove)的部分畫得紅一點,看起來很像身上長紅斑,有點滑稽。
總之,以前畫家們總是努力想要畫出像西洋人一樣潔白的肌膚,但現在,模特兒的膚色就算不怎麼漂亮,也如實表現,不再刻意美化。
明治四十年(1907)左右,巴黎出現了一群後期印象派的畫家,其中有位名叫高更(Eugène Henri Paul Gauguin)的畫家,以法國統治的殖民地土人為模特兒,肌膚是土黄色就直接畫成土黄色,身體造型欠佳也依樣畫葫蘆。自從西洋人開始畫這種不漂亮的裸體,日本的畫家也開始直接描繪日本人模特兒的膚色及比例,不再予以美化。比起從前賀加斯所提倡的曲線美,現在反而是剛健的直線美的裸體更加常見。
後期印象派的畫家,特別是之後的立體派的畫家,其信條是直線美,而非曲線美,理由是直線給人的感覺比曲線強烈,而強者具有美感。
這些畫家的主張因為立足於直線美,而非曲線美,因此,在裸體畫方面也不像以前的畫家一昧追求美麗而優雅的線條,而是崇尚粗曠且強而有力的線條,認為以如此線條創作的裸體畫比較美,這雖是畫家個人主觀的問題,但更是這種概念下的產物。是以,現在很少會看到像以前一樣只追求美麗的裸體畫,也就是說,如此結果可將之視為裸體畫的變遷。
未來的裸體畫應該會更加往這樣的方向前進,總之,畫家們如今不再刻意修飾以求裸體畫的完美表現,反而是拒絕美化,將眼前所見的模特兒如實呈現在畫布上。至於這種表現的裸體畫是否對風俗有害,無論是在東京的各種展覽會或是在臺灣的臺展,也都一様會受到警察的臨檢取締,一様會受到從社會角度來思考的審慎眼光。
這些是發生在明治三十二年(1899)左右,距今約三十年前,黑田氏及其他畫家的裸體畫遭受到警方的檢閲,然而,如今同樣的情況重複上演。或許未來等大家的眼睛已經習慣,習慣已經改變時,這些針對裸體畫的問題應該也會逐漸失去討論的意義,因為這只是藝術上的立場不同於社會風教上的立場,亦即,在藝術上不構成問題的表現,在社會風教上卻可能遭到質疑,例如二、三年前在帝展出品的新海竹太郎氏作品《聖天大帝的本尊》,新海氏既是帝室技藝員,也是帝國美術院的會員,更是日本最高權威者的彫刻家,但此作卻被判斷為對風教有害,也因此,只能遵照警方的命令從原來的展間將作品移至別室陳列。如此,從技術上來說,是我邦(日本)最高權威的大師之作,從信仰的角度來看,題材是聖天的本尊,這樣的彫刻作品從風教上來看卻是有害的,這真是一個棘手的問題,然而,在此存在的是詮釋的差異。其實,在西方,例如英國這個國家因為「Puritan」,即「清教徒」的信仰上的關係,其裸體畫或裸體彫刻的表現,並非我們所想像的如同照片一般的寫實,而是既優美且穏健。因此,雖然社會民眾的想法與美術家的想法很難取得一致性,但如果世人能尊重美術家在創作上的考察,信任美術家的創作具有藝術價值的話,便什麼問題都沒有了,又或者是美術家們都能基於純真無邪的動機來創作的話,這樣創作出來的作品,應該無論是誰看了都不會有問題的。如果連這樣的作品都有害風教的話,那就可能是觀者自己的胡亂遐想所致,因此,若美術家這邊不再想著如何創作吸引世人目光的作品,捨棄這種俗念,也就是說,若觀者或創作者雙方都能秉持純真思維的話,那世上就沒有比裸體畫更優美高潔的存在了。在巴黎,若讓模特兒穿著衣服坐下擺姿勢時,模特兒這邊會主動詢問是否要脫去衣服?這是因為模特兒對自己的肉體之美非常有自信,想向畫家展示,而且若穿著衣服讓畫家描繪,反而失去了當模特兒的價值。他們的思維就是如此之純真無瑕,而在日本,更因為風俗習慣的差異等因素,以致於無法如此率真行事,也因此出現了意見之差異。
在西方,裸體畫先是在法國盛行,甚至有將美術展覽會的裸體彫刻或裸體繪畫集結成一冊內容僅限裸體題材的作品目錄(catalogue),足見其裸體思想之普及程度。
與從前相比,在日本對裸體的見解也產生了變化,這是因為佛蘭西展(譯注8)在日本舉辦的關係,雖然其第一回展並未引起世人的注意,但第二回展在大正十二年(1923)舉辦時,受到了非常大的關注。當時是在上野舉辦,我也有幸擔任該展的陳列委員,協助出品作品的陳列事宜,展覽期間秩父宮雍仁親王(譯注9)及久邇宮邦彥王(譯注10)曾經訪臺,此外,感謝皇恩浩蕩,當今皇后陛下(譯注11)在當時也曾與其父君的久邇宮殿下一起駕臨會場,還不惜屈尊親自挑選並購買某位法國畫家的作品,而在此展覽會上,也陳列有羅丹(François-Auguste-René Rodin)的大型裸體彫刻以及其他裸體畫作。若是從前,此展肯定會是眾矢所指,然而,可以歸功於時代的進歩吧,裸體題材的作品已經不再被視為有不敬之嫌,皇族成員們也都能自由自在地盡情鑑賞。才只隔了大約三十年,針對裸體的批判態度就已經如此不同,因此,未來想必大家的想法能夠逐漸取得共識,在廣義的層次上,以率真之眼來鑑賞裸體作品。以上是針對裸體畫及裸體彫刻迄今的發展過程以及社會地位的簡單介紹。
日本に於ける裸體畵
石川欽一郎
明治二十五六年頃の事と覚えて居りますが、其の頃私共がやつて居りました西洋画の団体の明治美術会と云ふものがありましたが、其の会で裸体画に就いての討論会を日本橋八町堀に銀行集会所と云うものが其の頃ありまして、其の二階が広いので、其処を借りて討論会を開きましたが其の演題は裸体の絵画、彫刻は風俗に害有りや否やと云ふものでありました。
私は其の頃は未だ書生時代でありましたが、先輩の彫刻家や、画家が集つて裸体の彫刻や絵画が風俗に害があるか奈何と云ふ事を討論するのを聴きに行つたのでありましたが、只今考へても随分幼稚なものでありまして、裸体画の彫刻や、絵画が、風俗に害があるや否やと云つても要するに害のあるものは有り、ないものはないと云ふだけでくだらぬ議でありますが、結局討論も不得要領に了つたのを覚えて居りますが、斯う云ふやうに、いろいろ論議されるやうになつたのもつまり裸体の彫刻や絵画が、我々の注意を引き又た観衆の注意も引くやうになりました結果で、世間も漸く裸体の絵画彫刻に就て多少考へるやうになつて来たのであります。
それまではまだ公開の場所に裸体の絵画彫刻を並べて見せることも無かつたのでたまたま外国から持ち帰へつた裸体の絵や彫刻が参考品として陳列された位のものでありました。実際の談が、着物を着たものでも風俗に害のあるものはあり又無いものは無いので、何うも、之は其の作家の気持次第でそれが製作の上に現はれるものでありますから、目に見る処よりもその作の精神の如何にあると云ふ結論になるのであります。
丁度明治二十九年頃と思ひますが、白馬会に黒田清輝氏の裸体画が出品されましたが、これが我邦で裸体画が公開の場所に出た最初のものであらうと思はれます。この裸体画は西洋婦人を画いたものでありまして、大きさは可成大きなもので六尺位であつたかと思ひますが、黒田さんが巴里で揮毫され彼地のサロンに出品されたものであります。夫れは何んな裸体画かと申しますと、西洋婦人が朝の化粧をするところで、裸で鏡に向つて髪を結つて居る図であります。
全身ではなく腰から以下は腿も半分ほど見へ、後向きになつて居るのでありますが、前の鏡にはからだの前の方がぼんやりと映つて居ります。その頃この画は大分問題になつたのですが併し黒田さんの描いたのでもあり、又サロンには出品し、少しも風俗に害があるものでもないので其のまゝ陳列されましたが、恰度明治三十年に内国勧業博覧会が京都に開かれました、其の時は黒田さんは審査員の一人でもあつたので審査員が、裸体画を出品されたのでありますから異議の容れやうも無い筈でありますが、併し京都の様な保守的の土地に一躍してさう云ふ裸体画が出品されたので、又議論が起りました。併し黒田さんへは若しこの絵を出品されないならば、自分は審査員を止めると言ふので結局出品はしたのでありましたが、その時計らずもいや計らずものでは無く全く予定されたことであつたと思ひますが、明治天皇様が、この博覧会に行幸になりました。其の時又たこの裸体画が問題になつて、何うも此の画を天皇の御眼に当てるのは恐れ多いから取り下ろした方が可いと云ふ説が出ました。併し黒田さんは既に巴里でもサロンに出たものであるから少しも差支無い、若し取り下げるならば自分は審査員を止めると言はれるので問題がむつかしくなり、取り下げるわけにも行かず、といつて出して置く事も出来ないので結局行幸の時には画に白い布を張つて陛下の御眼碍りにならぬ様にしたと云ふ事でありました。其の頃ジヤパンメールと云ふ英字新聞が書いた其の社説を今考へますと余程面白いのですが、黒田氏の裸体画に就いて斯う書いて居ました。一体裸体画と云ふものは、殊に婦人は人に裸体を見られるのをいやがるものである。夫れを画に描いて公衆の前に陳列することは甚だ宜ろしくないと云ふ議論でした。夫れから其のフランス人の新聞記者で又た画家であつたビゴーと云ふ人が横浜辺りで出る外国雑誌にカリカチユールを描いて、黒田さんの裸体画の前に田舎から見物に来たお爺さんやお婆さんや夫れから着物の裾をはしをつて居る田舎の女等があの裸体画を見てびつくりして腰をぬかして居る所の図が出たことを覚へて居ります。兎に角あの裸体画は社会に大なるセンセーシヨンる起したのは事実であります。
其の時分から白馬会へも裸体画が多く出る様になりました。
白馬会の展覧会は上野公園で何時も開かれて居りましたが、警察ではだんだん裸体画を取り締る様になりました。尤も夫れには一定の取締の方法はなくたゞ下谷の警察署から警察官が展覧会へ検閲に来るのでありましたが、これは今日でも変りはありません。その時の署長の手加減で緩になることもあつたり又た厳であつたりしましたが、別室を設けてそれに陳列して美術研究者とか、特殊の人にのみ見せる。別室の入口に帳面を備へて夫れに記名してから中に入つて見せた事もありましたが、又或る時は裸体画に白布の腰巻をさせた事もありました。夫れは今日考へれば寧ろ滑稽でありましたが、裸体画は他の部分は見ても宜ろしいが、見て悪い所には白い布を画の上から巻いたのであります。彫刻も同じくさう云ふ風に布を巻きました。併しこれが反つて絵を卑しく見せる結果になります。用意周到が反つて用意周到でなくなりましたが、斯う云ふ色々な滑稽もありました。
又或る時、私などの関係して居りましたトモエ会と云ふ洋画の団体の展覧会に水彩画の小さなものを五姓田芳柳氏が出しました。田舎家の庭を写生したもので田舎の事であるので、外に風呂が置いてあつて、田舎の女がその風呂に入つて居る小さな点景人物があります。それは寸法にしましたら極く小さい五分位の大さの人物でありましたがこれは別に入浴の所を画く心算では無く、田舎家の有様を画いた中にさう云ふ人物があつたわけです。
我々は別に気も付かぬほどでしたが、検閲に来た警察官がそれをすつかり見てとうとう取り下げることになりました。夫れから思ふと今日では大分取扱が緩になりましたがこれは段々目が慣れて来たゝめに夫れ程感じなくなつたものでありませう。
一体画家は何んのために裸体画を画くかと云へば、これは古い時代で申せば、ギリシヤの彫刻に出来て居る神さまの像、例えばビナスやアポロとか云ふものは何うも着物を着て居ては身体の立派な姿や美くしい感じが出ません。それ故外国の裸体画や彫刻は表現の目的に適はせるために裸体にした場合が尠く無いのでありますが、裸体の曲線の美に就て論じた人はイギリスの画家ホガースと云ふ人で、十七世紀の終りから十八世紀の半頃まで在世した人です。此の人が、曲線の美と云ふことを推賞したのですが人間のからだより外に美くしい曲線を持つて居るものはありません。ラインス、オブ、ビユーテイー、それで曲線の中にもSの形が一番美くしいものであることをホガースは唱へました。我々は裸体の曲線を研究してデツサンを習ふのですが、私自身は余り裸体画は画きませんけれども研究の手段として皆モデルを使ふのでありますが日本人のモデルは奈何うもからだの肉色が美くしくない。各部分のポロポーシヨンも面白くないので多少モデルの形を変へて西洋人のやうな裸体にして画いたのであります。足の美くしくないのは美くしい足に更へ、色の佳くないものは色を佳くして描いたのです。画室が寒いと身体に赤味を見せやうとすれば、ストーブに近い部分だけが赤くなつてぶちなからだになると云ふ滑稽もありました。
要するに西洋人のやうな肉色を出すことに努力したのでありますが、現在ではからだの色が綺麗でなければその通り綺麗でなく画く様になりました。
明治四十年頃にパリ―に後期印象派の一団が起りましたが、ゴーガンと云ふ画家は、フランス領の植民地の土人をモデルにして黄色い身体をそのまゝ黄色く描き肉付も無格好のものをそのまゝ描いたので、西洋人がさう云ふ綺麗で無い裸体を画く様になつてからは日本の画家も日本人のモデルを肉色もポロポーシヨンもそのまゝ直さずに描くやうになりました。今では昔のホガスが言つた曲線美でばく寧ろ剛健な直線美の裸体が見られるまでに変つて来ました。
後期印象派の人々殊に立体派の画家の信条としては曲線は美でない、直線の方が美であると云ふことで、何故さうかと云へば直線の感じは曲線よりも強い、それで強いものに美があると云ふのであります。
曲線が美で無く直線が美であると云ふ主張に立脚して居りますので、裸体画も昔の様な美くしい、優しい線で画いたものよりもごつごつした強い線で画いたものが美くしい云とふことになりますが、これは主感の問題でありますけれども先づ斯う考へた結果であります。夫れで今は昔の様な単に綺麗な裸体画は余り見掛けられぬ様になりましたのは結り裸体画の変遷とも見られます。
将来も裸体画は益々此の方向に進んで行くことゝ思ひますが要するに綺麗に飾つた様なものでなくもう見た通り、少しもなほさないモデルに見るまゝの裸体画を今は描いて居ります。それで之が風俗に害があるかないと云ふ事は東京の諸展覧会でも又た臺灣の臺展でも同様で警察が臨検して社会的の立場から慎重に考慮される様であります。
これは明治三十二年頃今から三十年ほど前に黒田さん其の他の画家の裸体画が検閲された様に今同じことを繰り返へされて居るのであります。夫れで将来は眼も慣れ、習慣も変はつて来ませうから裸体画に対する問題も段々に失くなるだらうと思ひますが之は芸術上の立場と社会風教上の立場との相違であつて芸術的に宜いものでも社会風教に宜しくないものもありまして例えば二、三年前に帝展出品された帝室技芸員であり帝国美術院の会員であり、日本最高権威者である彫刻家新海竹太郎氏の作聖天様の御本体は風教に害があると言ふ点から警察の命で取り下げられて別室に陳列された事があります。成程技術上から云ふならば我邦の最高権威である大家の作であり信仰から云へば聖天の御本体であるその彫刻物が風教上から見て害があると云ふことは問題が六つかしいものになるのでありますが、茲に解釈の相違があるわけであります。尤も西洋でもイギリスと云ふ国はピユリタンで即ち清教徒の信仰を持つ関係上、裸体画や裸体彫刻は我々の考へる様な写真的のものではなく優美な穏健のものが見かけられます。それで社会民衆の考へ方と美術家の考とがなかなか一致しがたいものでありますけれども、世間の人が美術家の考察を尊重して之は美術家の芸術的価値のある作品であるとして信用して見れば無難であり又た美術家も純真なる考へを基として製作したならば、誰が見ても少しも差支へないものが出来る筈であります。夫れが若し風教に害があると云ふならば幾分見る人の邪推もありませうし、又た美術家の方も世間から注意を引かうと云ふやうな俗な考を取り去つて見る人も製作する人も全く純なものであつたならば裸体画程優美な高潔なものはないと思ふのであります。巴里あたりでモデルを傭ふ場合に着物を着たまゝで座はつて貰らはうとすれば、モデルの方から着物を脱がうかと尋ねる位でありますが、これは自分の肉体の美しいところを見せたい自慢もありませうし、又た着物を着たまゝで画いて貰つたのではモデルになつた甲斐がないとでも思ふのでありませう。それほど考へ方が総べてに綺麗に純に行つて居りますが、まだ日本では風俗習慣の違いなどで斯うさつぱりとは行きません。其処に意見の相違も現はれて来るのであります。
西洋では先づフランスが一番裸体画が盛でありますが美術展覧会の彫刻や絵画の裸体のもの丈を一つに集めた裸体作品のみのカタログがある位で、それだけ裸体に関する考が普及して居ります。
併し以前に比べて日本でも裸体に対する考が変はつたと思はれることはフランス展が日本で開かれるやうになつて、その第一回はまだ余り世間の注意を引きませんでしたが、第二回は大正十二年の頃で、これは相当に世間の注意を引きました。その時は上野で開かれたのでありましたが、私も其の時に陳列委員になつて、陳列の手伝ひをしたのでありますが、開会中秩父宮様又た久邇宮様が臺臨になり、恐れ多い事でありますが、今上皇后陛下にもその時御父君の久邇宮殿下と御一諸においてになりまして畏くも御自身に親しく或るフランス画家の絵を御選定になつて御買上に与つたのでありましたがこの展覧会にはロダンの大きな裸体の彫刻も陳列され、他にも裸体画はありました。若し以前であつたならば問題になつたでせうが、時代の進歩と申しませうか夫れを少しも不敬とは考へず、又た宮様方にも御懸念無く御鑑賞になつたのでありました。僅か三十年位の隔たりでありますが、裸体に対する批判は非常に変つて参りましたから将来とても益々人々の考に融和して広い意味で素直に鑑賞する事が出来る様になるだらうと思ふのであります。裸体画及裸体彫刻の今日までの経過と社会的地位とに就いて大体を申し上げました。
─原載《臺灣教育》,1931-02-01 ,第343期
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注(1) 此畫名稱為《朝妝》(1893),已於第二次大戰時燒失。《朝妝》的日本首次公開展示,其實是明治27年(1894)10月11日由明治美術會在東京舉辦的第6回明治美術會展上。可能因為年代久遠,導致石川誤記,本文的敘述,多處有記憶上的誤記或混淆。
譯注(2) 「沙龍」為「美術展覽會」之意,為美術展的濫觴,因1667年舉辦的會場在羅浮宮的「方形之間」(salon carré)而得名。《朝妝》入選的是1893年3月由國民美術家協會舉辦的沙龍。
譯注(3) 《朝妝》的確呈現模特兒的背面之姿,但是是全身描寫,鏡子內的身體正面描寫才是「腰部以下的小腿只看得到一半」,石川此處明顯有記憶上的混淆。
譯注(4) 《朝妝》出品的内國勸業博覽會,其實是舉辦於明治28年(1895)。
譯注(5) 明治2年(1869)12月於横濱居留地創刊的英文報紙。
譯注(6) 東京都台東區的町名、地域名。
譯注(7) 成立於明治34年(1901),翌年舉辦第一回展,創始會員為川村清雄、東城鉦太郎、石川欽一郎、石原白道、二世五姓田芳柳。
譯注(8) 指的應是「佛蘭西現代美術展覽會(Exposition d’Art Francais Contemporain)」,第七回展以後更名為「佛蘭西美術展覽會」,通稱「佛展」。法國人畫商Herman d’Oelsnitz 於1922 年將法國繪畫・彫刻・美術工藝品大量運至日本,在東京及大阪以陳列販賣的形式舉辦大型展覽會。1922年第一回展,之後幾乎每年舉辦至1931年(第九回)。
譯注(9) 秩父宮雍仁親王(1902-1953),日本大正天皇之次子,昭和天皇之弟。1922年,立為秩父宮。曾於1925年訪臺。
譯注(10) 久邇宮邦彥王(1873-1929),久邇宮朝彥親王之子,久邇宮第二代當主,1891年世襲父親封號,日軍陸軍大將。1928年5月訪臺,14日巡視臺中州時遭在臺朝鮮人趙明河暗殺未遂,史稱「臺中不敬事件」或「趙明河事件」。
譯注(11) 香淳皇后(1903-2000),名諱良子,昭和天皇的皇后,久邇宮邦彥王之長女。