對談 楊佐三郎、吳天賞

 在本島(臺灣),對畫作的批評太少了。
  若沒有尖銳激進的批評湧現,畫家這邊也可能因為缺少刺激,以致於難以鼓起勇氣朝向獨自的畫境前進,而傾向於製作迎合大眾品味的作品,又害怕大眾的背離,便只專注於製作宛如大眾小說的膚淺作品,卻因此在不知不覺中讓藝術之神逃得無影無蹤。嚴厲的畫評可能傷害彼此感情的顧慮,對藝術的世界而言,反而是奇怪的,而一心只期待讚辭的傻氣作家,也令人傷腦筋。就憑這點,我認為畫家方面也可以盡情發表評論。

 站在作家立場,我想作家還是盡量不要插手批評比較好,因為自己的作品也一起陳列其中,還是避嫌的好。建議主辦單位每年招聘優秀的審查員時,也同時招聘優秀的批評家。希望嚴格的批評能提供畫家良好的刺激。我覺得臺灣迄今的批評,顧及私人交情的比較多,不是支吾其詞,就是講些客套話,或者挑剔一番,這些都稱不上真正的批評。希望能更親切並具體地指出作品的好壞。

 稱讚夥伴雖算不上是壞事,但針對夥伴的作品,也應秉持藝術良心,認真予以批評才對。這樣的風氣若不養成,便很難指望畫壇會有多大的進步!批評者和被批評者,希望雙方都能抱持坦然寬容的心態來看待畫評。

 同感。

 鹽月(桃甫)兄和立石(鐵臣)兄的創作,頗多值得欽佩之處,但今年的作品卻意外令人失望。兩人的作品都具有良好素質,然而,鹽月兄的〈陽〉,配色過於單調,畫品或者說畫趣低俗,顏料感覺浮在畫布上。畫家雖然並未喪失與畫布肉搏的一貫姿態,但卻隱隱感覺即將陷入形式主義(mannerism)以及遊戲的危險。 鹽月兄這次的畫作,感受不到一直以來的發人省思的優點,所以被視為單純賣弄畫技之作,也無可厚非。既然是小品,畫面應該要流露出某種東西,例如詩ㄧ般的情緒或是音樂的旋律之類的才好。

 立石兄的〈夕雲〉,雲朵的描寫不足,畫面重心偏右。
  色彩感的表現計畫,效果過於強烈,彷彿是在魔術表演,令人不滿。雖然整體來說,作者的意念附身於構圖和色彩之上,遍布畫面的每一個角落,然而,立石氏向來的創造性卻似遭此畫將其活潑奔放的手足斬斷了一般,也就是說,可以看到將實物直接剝裂的高超技藝,但作者的卓越感覺與素材掌握,都停留在標本的程度。整幅畫的感覺很舊。

 那個雲朵的描寫,像是火球或是燐火在飛舞。近景的綠色,鮮豔奪目,然而,顏料塗了厚厚一層,效果卻不如預期,此處應該薄塗,才能呈現出效果。畫面左上方,出現蚯蚓般的腫脹現象,這點希望立石兄要有作為畫家的思慮周密的神經。

 臺北的飯田實雄兄和其他兩、三位作家,不論是題材的處理方式或是材質感的描寫等方面,都很類似,其中又以飯田兄較為傑出。今年的〈沼〉,蓮花、沼澤及遠景的小孩等的描寫,頗令人感到愉悅,氣氛表現也佳,可惜那隻大牛和沼澤之間缺乏關聯性。
  整個畫面的構成很成功,這幅畫作為飯田氏的創作,有表現出空間感,這點很好。

 飯田君這一派的創作風格都差不多,但實際上,這很荒謬!過於追隨團體所偏好的風格,結果就是喪失自己的個性,應該要汲取團體的優點,摒棄其缺點才對。
  飯田兄的作品具結構性,這點不錯,但素描能力明顯不足,人物和牛的描寫手法感覺幼稚,若能以畫蓮花的方式來統一整個畫面,或許更好。只有小孩這個題材借用獨立展(獨立美術協會展)畫家海老原喜之助兄的畫法,其餘題材皆採用寫實的畫法,正因這樣以兩種截然不同的畫法來構成畫面,效果才欠佳,應該要統一畫法。該團體的其他畫家,也太拘泥於材質描寫,建議把專注力更集中在創作本身,材質描寫只要恰當,應該就能畫出滿意的作品。

 榮獲二千六百年賞(譯註1)的高橋惟一氏的〈唐菖蒲(Gladiolus)〉,你覺得如何?

 高橋君的創作,堅實有力(譯註2)府展今後應該很需要這種作品,既不投機取巧,感覺也樸實無華,要挑剔的話,是有點像唸美術學校的學生習作,以這點再來看這幅出自高橋氏之手的畫,就不是那麼令人激賞了,但仍值得年輕作家參考。

 在顏料的堆疊塗抹上,有厚重感,但似乎不夠俐落。女流畫家方面,室谷早子氏的〈太海海岸〉,具有潛力,是幅讓人一看就能坦率讚美:「這樣很好!」的作品。

 看得出拼命學習的努力痕跡,不偏頗某種風格,創作上重視基礎,穩扎穩打。岩石的質感需加強。

 岩石似乎有些鬆軟感。

 用於強調(accent)的色彩過於顯眼。若能以這樣的水準持續創作的話,未來可期。

 比室谷小姐的畫作小巧雅致的,有荒木愛子小姐的〈南國的水果〉。這幅也是毫不做作的坦率之作,令人喜愛。

 同感。

 廖繼春氏的〈初秋〉是會場上值得注目的作品。能表現這樣的風格,作者應該要更有自信且毫不客氣地踩著咚咚咚的腳步聲持續前進才好。這幅畫的創作方向很有趣,但例如在效果上,似乎仍欠缺撼動人心之處。若畫面上能湧現出更多甚至滿溢的自信,則佳。

 廖君在創作上能調和強烈的色彩與柔和的色彩,這點很令人敬佩。位於中央的群青色的樹幹,效果不好,破壞了畫面。具獨創性的表現,能夠從自己的肉體像湧泉般噗吱噗吱地不斷冒出,實令人羨慕。
  桑田喜好氏的〈白牆〉,取材上很有專業水準,整個畫面的呈現既不誇張嚇人,也不草率隨便,讓人有好感。不過,從下面的拱門看到的天空,欠缺空間感,走過去感覺會撞上。

 〈白牆〉乍見之下不覺得出色,但細看之後,發現色彩頗有味道。像那種泛白色系相當有味道,而且是甜味。就甜味這點,此畫是成年人之甜,田中清汾氏(譯註3)的〈綠葉之蔭〉,則是十六歲少女之甜。〈綠葉之蔭〉不知是否是因為樹蔭的筆觸過於瑣碎,所以喪失了綠色的活潑生氣,雖然畫得很認真。

 根津靜子小姐的〈更紗(chintz)花樣〉,你覺得如何?

 作者的女性特有的神經質,完全顯露在畫面上,令人扼腕!感覺像是宮本三郎氏那樣的靠技巧及靠感覺的創作表現,而這種畫的性格,也就僅止於畫面上的呈現,也就是說,令人感覺技術好而已。

 坐著的那個人,臉和頭髮的描寫佳,但此人的感覺不健康。地面的褐色調,需要再多加考慮。
  福井敬一氏的〈龍舌蘭與人〉,構思佳。龍舌蘭葉的描寫以及畫面的構成,都游刃有餘。
  背景的人物的裙子,顏色過於強烈、顯眼,切忌太沉溺於趣味性。

 我認為〈龍舌蘭與人〉還缺少畫龍點睛的一筆。

 李石樵氏的〈柘榴〉,既非李氏力作,也非其傑作,但可窺見暗示畫家未來方向的閃光。
  憑藉著反學院(Anti-Academy)的氣概,這個作家的成長,就從這裡開始,值得期待。偉大的個性,通常都是將基礎置於反學院之上。

 雖非李君的力作,但全心投入的率直表現,予人好感。像這樣無所顧慮、一心一意往自己的道路前進的態度,在李梅樹君的創作(〈朝〉)上,亦可窺見。

 西尾善積氏的〈南洋風景〉的色彩,感覺容易看膩。

 色彩還挺漂亮的,但畫面支離破碎。

 陳澄波君返老還童了呢!

 陳君若返老還童,應該高興才對。
  其作品貴於天真無邪、坦誠。將來可期。

 齋藤與里氏的〈赤城山〉,有格調,在裝飾性技巧的深處,有表現出面對景色的卓越感受,有餘韻。能畫出日本人的心境與畫境,果然厲害。

 畫面有韻律感(rhythm)。

 陳德旺君的畫(〈水邊〉),像斷頭蜻蜓般有頭無尾,也就是說,作者的構思不錯,可惜技巧跟不上。楊君,你的〈初秋湖畔〉(譯註4),你自己覺得如何?

 你覺得呢?

 就那樣的風格來說,色彩的微燻的色澤處理還不錯,也沒別的可挑剔,不然,你也返老還童一下,從所謂的讓人一頭霧水的畫開始創作,如何?

 我可能沒辦法進行所謂的讓人一頭霧水的創作。我期許自己像爬梯子般,一階一階地慢慢往上爬,不要妄想一步登天。不過,我對自己的創作,也還不滿意。

 我的意思是換把梯子爬看看。也可以解釋成,在至今的創作上,搭一把別的梯子爬看看的意思。

 嗯。                  (完)


第三回府展の洋画に就いて

対談 楊佐三郎、呉天賞

 本島では絵の批評がすくな過ぎると思ふ。
  先鋭な批評がどしどし現はないと画家の方でも刺戟されることが尠なく、そのために思ひ切つて自分の画境を進めてゆく勇気が出ずに、大衆向きの甘い絵を作る傾向に流れやすいのではないか、大衆から見離されはせぬかといふ心配で、大衆小説のやうな甘い仕事ばかりしてゐては何時の間にか芸術の神様の方で愛想をつかして逃げてしまふといふやうになりはせぬかと思ふ。絵をわるく批評して感情を害してはといふ懸念も芸術の世界では却つておかしなもんで、たゞ賞められたい一方のおめでたい作家も困つたもんだね。その意味からしても画家の側からどんどん批評が出ていゝのではないかね

 作家としては、批評の方は出来るだけ出しやばらない方がほんとうではないかと思ふ、自分の作品も並べられてゐるのだから、遠慮したい気持だ、当局としてはいゝ審査員と共にいゝ批評家を毎年招聘する必要があると思ふ、厳格な批評をして貰つて、それによつていゝ刺戟を与えて貰ふ、台湾の今までの批評は私情的なものが多い感じだ、茶化したり、お世辞を言つたり、貶したりしただけでは批評の意味を成さない。もつと親切に作品のよしあしについて具体的に指摘して欲しいものだ。

 仲間を賞めることはあながち悪いとは言へないが、仲間の作品に対しても芸術良心に照らして真剣な批評をなすべきですね、そういふ気運を作らないと進歩が少ないのではないか、言ふ方も、言はれる方も常に釈然たる寛容が望ましい。

 同感ですね。

 塩月さんと立石さんの仕事には敬服すべき点が多いが今度のは期待がはづれた、どちらもいゝ素質だが、塩月さんの「陽」は色彩の組合せが安易に過ぎて、画品とか趣味としても低く、絵具がカンバスから浮いてゐる感じだ。カンバスに肉薄する従来の態度は失はれてゐないが、マンネリズムと遊戯の一歩手前にあるやうな危険な感じだ。

 塩月さんの絵は今までのやうな突つ込んだ良さを感じない、たゞ悪達者にみえてしようがない、小品であればこそ画面に流れる何かしらかゞ欲しい、詩的情緒か何か、メロデイーのやうなものが欲しい。

 立石さんの「夕雲」は雲の描き方が足らず、画面の重みが右側に片寄り過ぎてゐる。
  色彩感の表現計画が効き過ぎて手品みたいで不満である。構図と色彩の上で全体として作者の意慾が画面隅々までにゆきとゞいてゐるが、この作品は従来の立石氏の創造性からその奔放な手足を斬り取つたやうなものだ、ほんものをそのまゝ剥裂にした腕前は現れてゐるのだが、作者の優れた感覚と素材の掴み方が剥製のまゝでストツプしてゐる。絵全体が古いといふ感じだね。

 あの雲は火の玉か、燐火が飛んでゐる感じだ。手前のグリーンがなまなましくて目にちらつき、たつぶりと盛り上げた絵具が案外に効果なく、あそこはツユで行つて効果を出すべきところであろう。画面の左上方にみゝづ膨れが現れてゐるが、あれは画家としてのゆきとゞいた神経があつて望ましい。

 台北の飯田実雄さんほか二三の作家は、物の掴み方やマチエールまで殆ど類型的な仕事ををしてゐるが、その中では飯田さんが頭角を現してゐますね「沼」は蓮と沼と遠景の子供は仲々気分がいゝし、雰囲気も出てゐる、しかし大きい牛と沼の連絡がないね。
  画面全体の計画が成功してをり、氏の仕事として空間が出て来たのはいゝと思ふが、

 飯田君の一派は同じやうな仕事をしてゐるが、実際からすれば有り得ないことで、片よつたグループの色が濃厚すぎると自分の個性を殺て了ふ、グループのいゝところは取り、悪いところは捨てなければいけない。
  飯田さんの作品は制作的でいゝがデツサンの力が足らぬことが目につく、人物と牛の描写法が幼稚な感じで、蓮のやうなまとめ方で全画面を統一すればもつとよかつたのではないか、子供だけ独立展の海老原さんのゆき方をしてゐながら、他の部分は写実的である、二面的なゆき方で画面を作つてゐるがためによくない、もつとまとめて慾しい、グループの他の方もマチエールに捉はれすぎる、もつと本格的な仕事をした上でマチエールを生かしてゆけば満足な仕事が出来るのではないか、

 二千六百年賞の高橋惟一氏の「グラヂオラス」はどうですか、

 高橋君の仕事の手堅さはみとあるこの種の作品は今後府展に必要だと思ふ、山気がなくて素直な感じだ、わるく言べば美校時代の習作みたいな感があるが、高橋氏の作品としては感心は出来ない、若い作家の参考となる作品だ。

 絵具のくつゝけ方にコクあるがどこか間延びしたところがあるね、女流の方では室谷早子氏の「太海々岸」は力量があり、これでよろしいと素直に感心出来る作品だと思つた。

 一生懸命に勉強してゐる努力はみられる、片よつた味のみでなしに基礎のある仕事をしてゐる。岩の質感が必要ですね。

 岩はいくらかふやけてゐる感じだ。

 アクサンの色が目立ちすぎる、この程度のゆき方でゆけば将来期待できる。

 室谷さんよりか小じんまりした感じのものに荒木愛子さんの「南国の果物」があるが、これも無理のない素直な仕事ぶりで好感が持てるね。

 同感だ、

 廖継春氏の「初秋」は場中で注目すべき作品だと思ふ、かういふゆき方を作者は遠慮会釈することなくもつと自信を以てドシンドシンと足音をたてゝ歩みつゞけるといゝと思ふ、作品として面白いゆき方をしてゐるが、効果とか、動的に打つものがまだ出てゐない感じだね、カンバスに自信がもつと盛り上つてあふれて来るといいと思ふが。

 廖君の仕事は強烈な色と柔和な色との調和が出来てゐる点に敬服する中央のウルトラの幹は効果を成さずして画面を壊してゐると思ふ、ふつふつと自らの肉体から湧き出てた独自性のある仕事ぶりには感服する。
  桑田喜好氏の「白堊」はモテイフの取入れ方は堂に入つたものだ、全画面を通じてみるとおどかしも、ごまかしもない点に好感を持つ、たゞ下のアーチから見える空に空間の感じがなく、つきあたつた感じだ。

 「白堊」は一目見ていゝとは思はないが、よく観ると味はひのある色彩だ、あゝいふ白つぽい色で仲々味があつて、むしろ甘さを感じる位だね、甘さの点では、この方は大人の甘さで、田中清汾氏の「青葉の蔭」は十六娘の甘さだね。「青葉の蔭」は蔭のタツチがやかましいためか、グリーンの生彩を失つたやうだね。まぢめに描いてはゐるが。

 根津静子さんの「更紗模様」はどうかね。

 作者の女らしい細かい神経を画面に押しひろげてゐるところが痛々しい、宮本三郎氏あたりのやうな技巧的感覚的な仕事だが、かういふ絵の性格はそこにあるものだけしか、つまりうまさを感じるだけだね。

 すわつてる方の人物は顔と髪はうまく出来てゐるが人物から受ける不健康さを感じる、地べたの色はヤニツぽくて一考を要する。
  福井敬一氏の「龍舌蘭と人」は考へ方がいゝと思ふ、龍舌蘭の葉の描き方、画面の組み立て方にゆとりがある。
  バツクの人物のスカートが強すぎて目立つ、趣味的に走りすぎることを警戒する要があらう。

 「龍舌蘭と人」はもう一筆アクセントが欲しい。

 李石樵氏の「柘榴」は李氏の絵としては力作でも傑作でもないが、今後の方向を示唆する閃きはみられるね。
  この作家の成長は、こゝらへんから反アカデミーの気概によつて期待されるのではないかと思ふ、偉大なる個性はつねに反アカデミーに基礎を置くと思はれる。

 李君の力作とは思はないが、存分つゝ突んでゐる正直さに好感を持つ何の気兼ねもなく自分の進む道に向つてゐることは李梅樹君の仕事にも見られる。

 西尾善積氏の「南洋風景」の色彩は直ぐに飽きるやうなものではないかね。

 しやれたやうな色彩だが、画面がバラバラですね。

 陳澄波君は子供に還りかけたね。

 陳君が若返つたことはむしろ喜ぶべきことであらう。
  氏の作品は無邪気で素直であることがとりえである。将来を期待する。

 斎藤与里氏の「赤城山」は調子があり、装飾的な技巧の奥に景色に対していゝ感じ方があり余韻がありますね、日本人らしい境地と画境の到達は流石だと思ふね。

 画面にリズムがあるね。

 陳徳旺君の絵はしり切れとんぼ、つまり作者の頭はいゝが、手がおつゝかない絵だね、それはさうと君の「秋の湖畔」はどうかね。

 君はどう思ふ。

 あのゆき方としては色もわりにうまくいぶされてあるし、別に言ふことはないが、君などは子供に還つて所謂訳のわからぬ絵からやり出したらどうかね。

 所謂訳のわからぬ仕事は自分には出来さうにない、自分は梯子を一段々々と昇るやうに進みたい、高飛びは遠慮したい、もつとも自分の仕事は自分でも不満だ。

 別な梯子を登つてみたらどうかといふ意味だがね、今までの仕事の上に別な梯子を立てゝ登るといふ意味でもいゝが。

 うむ。                  (了)

─原載《臺灣藝術》,第1卷第9號,1940-12-20,頁31-33

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 明治初期,第一代神武天皇於橿原即位之年設定為紀元(或皇紀)元年,昭和15年(1940)適值紀元2600年,日本政府組織了「紀元二千六百年祝典準備委員會」,大規模舉辨各種慶祝(紀念)活動,府展自然也不遑多讓,設置了僅適用一年的獎項「二千六百年賞」。

譯註2. 原文的「みと」,日文查無此詞,應是「みどころ」的誤植。

譯註3. 田中清汾乃陳清汾的日本名。

譯註4. 府展圖錄上的畫題為「初秋の湖畔」,原文的「秋の湖畔」,應為漏植。