於東京 舜吉(譯註1)

西洋畫

如同在日本畫之處所述,與作品接觸的態度,幾無二致。日本畫、洋畫(油畫)只是材料不同,現今,連兩者的區別都不構成問題,美的根本「當然」也不會有所差異。至於作者的表現訴求或意圖,也是一樣。如同前述,日本畫是主觀的,而洋畫是寫實的。相較於日本畫的抽象且主觀的形式,

洋畫 的畫題比較接近日常生活,任誰看了都懂或有親近感,因為洋畫是以合理的方法將眼前景物直接描繪的畫,容易看得懂或將之作為興趣,「這」在日本畫之處已言及。對日本畫而言,寫生並非目的,而是方法,但對洋畫而言,素描(dessin)即寫生,是畫之骨骼,整幅畫的基礎。常聽到有人如此批評:所謂的洋畫展,畫題總是一成不變,無趣至極。然而,這些人即使觀賞畫作,也對具關鍵性的

畫面 構成或色彩或線條等繪畫要素,視而不見,很多都只看到題材的內容,即,畫了什麼。每幅作品都是透過畫家的個性,呈現在世人眼前,其構成、其色彩、其線條等等,雖因畫面需求在表現上有所不同,內含美的挑戰的畫家之魂,卻是相同的。無論畫的是人物,還是花或風景,即便是畫的種類改變,觀看的方式並不需要隨之改變,用同樣的看法或鑑賞法即可。

色調 如何或明暗如何、光線效果如何、筆法如何等等,這些也都不會有任何影響。

某日曾拜託某人幫忙找臺灣女性的模特兒(model),結果對方「始終」以具教育意義的良善理解加以思考後,推薦說公學校的女教師不錯。於是,見到了公學校的臺籍女教師二、三人,果然是品行端莊、純潔又有教養的婦人,但因為肉體方面全都軟綿綿的,完全無法點燃我作畫的慾望,反而讓我起了色慾之心。


美術の秋 臺展を前に 美術を見る眼 【三】

東京にて 舜吉

西洋画

日本画の所でかいた如く作品に接する態度はほゞ同じである。日本画、洋画は材料などで分けた位のもので今日ではその区別さへ問題になつてゐるやうな状態で、別に美の根本には少しの差もないワケである。作者のねらつてゐる心持ちや企図は同じである。前記した如く日本画は主観的で洋画は写実的ある。日本画の抽象的な主観的な形式に比べて

洋画 は日常生活に近い画題をだれがみても分りやすい親しみやすい合理的な方法でありのままにかゝれる画であるから、趣味なり理解なりに親しみ易いのであるコトは日本画のところにものべておいた。日本画に於ては写生は目的ではなく方法であつたが、洋画に於てはデツサン、写生がその骨子であり土台となつてゐる。洋画展と云ふものは画題に変化が少くておもしろくないと云ふ人も往々あるがさう云ふ人は画をみても、肝腎の

画面 の構成とか色彩とか線条とか云ふ画的要素をみないで何を描いてあるかと云ふ題材の文意的の見方に偏する人々が多いのである。夫々の画家の個性を通して見る人々の前に現れる作品はその構成、その色彩、その線条等は画面の都合でいかやうにも変つてゐるが美のある所を掴んでみるものゝ魂にひゞかすのは同じである人物でも、花でも風景でも何でも画の種類は変つてゐても、それらには別に変つた見方があるのではなく、みな同一の見方、味ひ方である

色調 がどうかとか、明暗がどうとか、光の効果がどうとか筆致がどうかと云ふことには少しも変りはない

ある日ある人に臺灣女のモデルを探してくれとたのんだら、公学校の女の先生がいゝと思つてるんだがとドコまでも教育的に善的に解して考へては呉れたが、さて公学校の臺灣女の先生を二人三人拝見に及んだが、よしそれが品行方正で貞淑な教養のある婦人であつたにしてもヘナチヨコな肉体の持主であつたため、描きたいなアと云ふ心も毛頭起らず寧ろや気がした位である

—原載《臺灣日日新報》,1927-09-22(日刊7版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯註1. 豐島舜吉,常以全名或「舜吉」、「舜吉生」發表文章與漫畫,後者通常署名「舜」。