於東京 舜吉(譯註1)
美術之秋到來!院展、二科展、構造社展已經率先揭開了點綴上野秋天的美麗幕幔,在我們臺灣,升起與內地(日本)相抗衡的臺灣美術展的旗幟,也已近在眼前,而這正是臺灣新時代的見證。本島(臺灣)大眾不久將可看到藝術的新驚奇,為了讓一般大眾在參觀美術展時,能夠製造只為藝術的氛圍,能夠理解作家的特色,能夠理解藝術發展的傾向,在此就美術作品的鑑賞,筆述愚見。
日本畫
日本畫看得懂,但洋畫(油畫)看不懂,這種話不絕於耳。在現代,素人(業餘者)們一旦想畫一幅畫,大多數人都是選擇洋畫。
洋畫 已然成為容易親近的畫種,因為洋畫是一種自由的繪畫形式,只要稍微嚐試一下,就「挺」有個樣子。現代的年輕男女學生,大多對洋畫有興趣,而且不僅是年輕學生,事實上洋畫作為嗜好或技藝學習,對一般人而言容易理解及引發興趣。翻開臺灣美術研究史(昭和二年一月十八日夕刊拙稿參照)的扉頁,例如大正五年(1916)設立的小嶋繁氏的RANTANE畫會(譯註2),或赤土社(又稱赤土會)、蛇木會、素壺社、黑壺會、南瀛畫會、七星畫壇以及其他二、三個畫會,雖起起落落,但全都是洋畫研究團體,這點證明了洋畫容易親近的事實。
且說 日本畫是「型」(形式)的藝術,若不能理解這個「型」,就很難入門。當然,日本畫雖是「型」的藝術,也與洋畫一樣,有寫生方面的苦惱,不過,寫生是方法,並非目的,根據院展(日本美術院展覽會)會員其中一人的說法,今日,年輕一輩的日本畫,簡直就是寫生報告的作品,有許多都落選。總之,鑑賞日本畫時,
道理 先暫擱一旁,應將自己親眼的所見所感,置於心中細細思量,若覺得好,「便」好。對於不知道「哪裡」好的作品,秉持不知為不知的心態「即可」,不須迎合別人的想法。當然,「這種」觀看模式,是一種初期的鑑賞方式,以這樣的狀態,隨著與畫作接觸的「次數」增多,觀看模式也會越來越熟練巧妙,美術鑑賞的心眼隨之誕生。
美術の秋 臺展を前に 美術を見る眼 【上】
東京にて 舜吉
美術の秋は来た、院展、二科、構造社展は既に上野の秋を彩る美しい幕を開けたが、我が臺灣にも内地に対抗して臺灣美術展の旗上げが眼前に迫つてゐるのは誠に臺灣の新時代を語るものである 本島大衆はやがて芸術の新しき驚異を見ることが出来る一般大衆が美術展をみるに当つて、芸術のためになくてならぬ雰囲気をつくるために、作家の特色を解するために、この傾向を開成するための理解のために美術作品の見方について愚感をかきつらねるのである。
日本画
日本画は分るが洋画は分らぬとか何んとか云ふ言葉は往々きかされる、現代に於て素人連が一つ画でもやつてみやうと思ふとどうしても洋画をやり出す人が多い
洋画 は親しみ易いものになつてゐる、洋画は一寸試みてみるとドウにか恰好のつく自由な形式であるからだ、現代の若い男女学生らは洋画の趣味を多分に持つてゐる、若い学生に限らず一般が洋画の趣味なり習技なりが彼らの理解なり趣味なりに適合してゐるのは事実である、臺灣美術研究史をひもといてみても(二年一月十八日夕刊拙稿参照)大正五年に小嶋繁氏がランタネ画会をはじめ、赤土社、ジヤボク会、素壺社、黒壺会、南瀛画会、七星画壇其他二三の画会が生れたり亡んだりしたがみな何れも洋画研究団であつたのをみても洋画は親しみ易い事実を証明してゐる
さて 日本画は型の芸術であつて型がのみこめないと一寸手が出しにくゝなる、もちろん日本画は型の芸術とは云へ洋画の如く写生の苦労もあるが、しかし写生は方法であつて目的ではないのだ今日若い人たちの日本画は写生の報告につきてゐるやうな作品はかなり落選したやうだと院展同人の一人が語つてゐた、日本画をみるときは、ともかく
理窟 はぬきにして自分の目にみた感をそのまゝ自己の心に映してみて考へるべきだ、自分がいゝと思つたらその時はソレでよい、ドコがいゝか分らない作品に対しては分らないそのまゝでいゝワケだ、他人の考へなどを入れる要はない、もちろんコンな見方は初期の見方であつて、この調子で何回となく画と接触するコトを多くする裡に見方も巧くなり、美術をみる心眼が出来てくるのである
—原載《臺灣日日新報》,1927-09-19(日刊3版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯註1. 豐島舜吉,常以全名或「舜吉」、「舜吉生」發表文章與漫畫,後者通常署名「舜」。
譯註2. 原文「ランタネ」的「ネ」或許是「ホ」,但無論是「ランタネ」還是「ランタホ」,皆查無此詞或此畫會之相關史料,故暫譯其音。