於東京 舜吉(譯註1)
會場 進去之後,切勿只是走馬看花般地匆匆觀看畫作,必須養成一幅一幅仔細鑑賞的習慣,但仔細慢慢看的話,會非常疲倦,所以許多人無法堅持到最後一幅畫作便離去,「這」在各種展覽會場上很常見。若感覺疲倦,第二天便必須再去把剩下的畫作看完,才不失禮節。等會場作品都鑑賞完後,對於在展品目錄(program)上自己標註的喜愛之作,再次回到這些畫作之前,然後宛如要把畫面看出個洞一般地重新鑑賞,這就是在展覽會場上必須做的最後一件事。
不久 報章雜誌會刊出各種批評或感想的文稿,閱讀這些文稿,並將之與自己的想法比較反省的話,會發現「那裡」不一樣之處(something),這時回去會場再看一遍,於是對不一樣之處(something)會印象特別深刻,若是原本就給予肯定的畫作會看起來更好,而原本覺得無趣的畫作,在知道「這裡」是畫家的苦心成果後重新鑑賞時,「當然」對該處會產生別的感想。
且說 對於每一幅作品,不可只是觀看畫面上畫了什麼,「因為」作家企圖表現的主觀意識非常濃厚鮮明且潛藏於畫面中,此即畫的內容,亦是一種向觀者傾訴的力量、有直接向觀者的心逼近的感覺等等,而「這」正是日本畫(東洋畫)最必要的,也就是說,相較於西洋畫,氣韻生動是非常不同之處,至關重要。
氣韻 生動、渾然天成,這對於一般人,即不能領悟此妙趣者,要靠「此乃神品」等評語,方能理解。所以,一旦觀看模式愈來愈熟練,就必須進入到內容鑑賞的階段。如此,再多去觀賞並研究大師級作品,便能培養出鑑賞力。其次是現代日本畫的傾向。現代的前衛日本畫,即使是驅使傳統畫法之作,在此,將以一定程度的現代的批判之眼評論之。
明治 大正、昭和以後的日本畫,若與過去的「那些」(日本畫)區別出一條界線,恐怕即使是已經開始意識到這件「事」的現今日本畫,表現的重「點」仍是線條動態、色彩調和、格調脫俗,而吸取「那些」畫作中的各流派傳統,同時將「這些」有意識地賦予嶄新表現,「這」才是現代日本畫的存在價值之處。
美術の秋 臺展を前に 美術を見る眼 【中】
東京にて 舜吉
会場 などに入つてカツキンで素通りするやうな見方ではいけない、丁寧につぶさにみる習慣をつけねばいけない、丁寧にみて行くとなかなか疲れるもので終りの方の作品なぞはみないで出て行く人々が多いコトは、いろんな展覧会場で見受ける、疲れたら又翌日残りを見に行くと云ふいんぎんな態度でなければいけない、プログラムに印を入れた気に入つた画のみを改めて穴のあくほど見直すのが展覧会場における最後の仕事である
軈て 新聞や雑誌等にいろんな批評や感想が出るからそれを読んでみて自分の考へと比べてみて反省してみると、ソコに違つたサムシングが生れる、その上で今一回見に出てみると、そこに変つたサムシングが印象されてみえ、自分がいゝと思つたやつがますますよく見えたり、自分が見てつまらなかつたと思つてゐたが、コウした所に画家の苦心があつたのだと知つて更に改めて見直してみると、又ソコに何かを掴むやうになつてくるワケである
さて 夫々の作品がたゞ何か描いてあると云ふ丈ではいけない、作家の期図する主観が色濃く活躍し、ひそんでゐるワケである、つまり画の内容であつて見るものに話しかけてくる力、見るもゝ心に迫る感じ等があるわけである、コレは日本画(東洋画)ではもつとも必要なものであつて、つまり気韻生動は西洋画と比べて甚だ異なる所であり、重要なるものである
気韻 生動天成に出で、人その巧み窺ふ莫き者、是を神品と云ふ』と解されてゐるに於て分るやがて見方がうまくなつて行くにつれ内容にまで突き進んで鑑賞すべきである、かくして大家の作品を又多く見て研究し見る眼を養つて行くべきである、次に現代日本画の傾向であるが、現代の進歩せる日本画は、如何なる古き画法を生かさうとするものに在つても、ある程度の現代的批判眼を以て見やうとしゐる
明治 大正、昭和以後の日本画が過去のソレと異なる一境界線を持つとすれば、恐らくかゝる意識を所有しはじめたコトである今日の日本画に於てもその大切なコトは線の動き、色の調和、気魄を持つことや、ソレらに於て各流派の伝統によると同時に、コレらをいかに意識的に新らしく生かさうとしてゐるか、コヽが現代日本画の生命のかゝはるところである
—原載《臺灣日日新報》,1927-09-20(日刊5版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯註1. 豐島舜吉,常以全名或「舜吉」、「舜吉生」發表文章與漫畫,後者通常署名「舜」。