一批評家(投)

第三室的呂鐵州氏的〈立葵〉,因圖案化表現,感覺像僵硬的假花。陳敬輝氏的〈女〉這幅畫,是人物畫中較具深度的描寫。陳進女士的〈年輕時〉,筆法流暢自由,表現亦具深度。在第四室,謝永火氏的〈宮之下附近〉,留白之處,感覺很浪費,尤其是山的描寫,感覺像是棉花堆積而成的。蔡永氏的〈靈石之芝山岩社〉,表現過於偏向數學形式,對內容有害無益。

第五室的鄉原古統氏的〈臺灣山海屏風〉,具色彩上的深度,比去年作品,更為優秀。林玉山氏的〈蓮池〉,筆法沉穩,調和而有深度。郭雪湖氏的〈南街殷賑〉,畫面處理地很好,但缺少迫人的深度。潘春源氏的〈琴笙雅韻〉,乃日本畫中的白眉,雖沒什麼深度,但令人感到舒適愉悅。

西洋畫第一室,李梅樹氏的〈朝〉,下半部的處理佳,但上半部太草率,有閉塞感。陳植棋氏的〈看得到觀音山的風景〉,不具任何有深度的內容,只因卓越的筆法,掩蓋了缺點。

任瑞堯氏的〈有芭蕉的風景〉,感覺在玩弄藝術,不負責任。鹽月善吉氏的〈馬西多巴翁社的少女們〉,似乎有某種訴求,但其藝術態度輕浮,不夠莊重。如此之畫,或許採東洋畫形式更好。竹中正義氏的〈習作〉,受帝展畫家中村研一的影響甚鉅,希望竹中氏能藉此發揮自己的本色。在第二室,楊佐三郎氏的〈老藝人〉,雖然有表現紮實之處,但小孩和老人的描寫,不夠生動,也缺乏統一感。廖繼春氏的〈持籠女孩〉,描寫上有相當穩健之處。石川欽一郎氏的〈平和鄉〉,是重量級的老大師,感覺有發揮其長年累積的深度。李石樵氏的〈編織少女〉,在表現上有其妙趣。

第三室的藍蔭鼎氏的〈港〉以哲學觀點統一其獨特的深度,色彩也具有令人難以理解的新生的苦悶。陳英聲氏的〈畫室〉有許多不自然之處,本橋正虎氏的〈黃昏風景〉較佳。李澤藩氏的〈閑庭之晨〉,比起水彩,用油畫來畫會更好。第四室的陳澄波氏的〈蘇州虎丘山〉,具有不可動搖的沉穩態度,比陳植棋氏更具深度。

第五室的高見澤庄太郎氏的〈工場〉,顏色雖淺,但有其優點。後藤登美子女士的〈靜物〉,就女流作家而言,有可圈可點之處。

總之,整幅畫同時兼具深度與廣度的作品很少,內容仍處於準備階段。臺展是一個在偉大的指導精神下的自由活動,是對本島的藝術的最佳理解者與發現者,也是一個確實掌握本島藝術的展覽機制。


臺展を考察す(下)

一批評家(投)

第三室の呂鉄州氏の立葵は模様化して固い造花のやうな感じがする、陳敬輝氏の女の一点は人物のうちで割合に深みあるものだ、陳氏進さんの若き日は、達者な筆技に自由な深みを表現してゐる、第四室で謝永火氏の宮ノ下附近は遠景は余白を残して無駄な感じをあたへる殊に山は綿を積んだ感じがする、蔡永氏の霊石の芝山巌社は表現が数学的に偏りすぎて内容をきづつく。

第五室で郷原古統氏の臺灣山海屏風は採色の深みを帯びたもので去年よりよいところをみせる。林玉山氏の蓮池はおちついた筆技で調和せる、深みをもつ、郭雪湖氏の南街殷賑はよく纏まつてゐるが迫る深みをもらず、潘春源氏の琴笙雅韻は日本画中での白眉だ、さう深くはないがゆつたりしたものをもつ。

西洋画の第一室で李梅樹氏の朝は下の方は粗暴しすぎて塞がれた感じがする、陳植棋氏の観音山の見える風景はなんらの深みある内容をもゝたず、筆技に妙を得てすべてがそれで隠される。

任瑞尭氏の芭蕉のある風景は芸術を弄した無責任な感じがする、塩月善吉氏のマシトバオンの娘らはあるものをよませるが、芸術的態度が軽く重みをもたないそんな絵なら東洋画でいつた方がよいかも知れぬ、竹中正義氏の習作は帝展中村研一氏の影響が濃厚だ。それを通しての本質を発揮してほしい、第二室で楊佐三郎氏の老芸人は確実な表現の一部もあるが、子供と老人とが生きて統一して居らず、廖継春氏の籠を持てる童女はなかなかしつかり居るところがある。石川欽一郎氏の平和郷は老大家の重みをもつ、積まれた深みをくむ感じがする、李石樵氏の編物をする少女は表現に妙を得てゐる。

第三室で藍蔭鼎氏の港は独特な深みを哲学的に統一されてゐる。その色彩も一寸理解離れした新生の苦悶をもつ陳英声氏の画室は不自然の部分が多い。本橋正虎氏の黄昏風景は比較的によい。李沢藩氏の閑庭の朝は水彩よりも油絵でいつた方がよい。第四室で陳澄波氏の蘇州の虎丘山は動揺のないおちついた態度をもつ、陳植棋氏よりはずつと深みをもつてゐる。

第五室で高見庄太郎氏の工場は淡い色彩だが良いところがある。後藤登美子さんの静物は女流作家としてはなかなか得てゐるところがある。

要するに絵全体を通じて深みある、広さにまで到達してゐるもの少く、まだ準備時期にあるやうな内容であると考へさせられる。臺展はその偉大な指導精神の自由な活動に持つべきものが多い、それは本島に対しての深き芸術的理解者であり発見者である。本島的芸術を確実に把握せられてゐるものである。

─原載《臺灣日日新報》,1930-11-07(夕刊3版)

(辨識、翻譯/李淑珠)