臺展搬入的第二天,即(十月)十六日從上午九點開始受理報名,這天也是天公不做美,終日細雨,讓畫家們在搬運時必須用油紙或澀紙(譯註1)蓋住畫面來保護畫作,好不折騰。除了島内審査員的作品,有許
多力作 被陸續搬運進來,到下午七點搬入截止時間為止,西洋畫有二百九十三人、作品達五百八十六件,東洋畫有五十五人、作品則達八十件。與去年的搬入相比,西洋畫有二十一人、四十一件作品的増加,東洋畫則有十人、作品五件的増加。此外,不只是數量上的増加,畫作也比去年更
多優秀 之作集聚一堂,西洋畫出現超現實主義(Surréalisme)之類的新傾向畫作,東洋畫也看得到大和繪或浮世繪等畫派風格的作品,值得注意。
東洋畫的 美麗畫作聚集
臺展的東洋畫雖然在數量上與去年差不多,但在品質上卻有顯著的進步,散發出初期「文展」(譯註2)時的絢爛華麗,讓鄉原古統和木下靜涯兩位審査員驚艷不已。而且臺展的花形(明星)畫家每個都爭相出品大幅畫作,爭奪
美之 冠冕。去年的特選畫家呂鐵州君繼續留在京都,追隨福田平八郎氏鑽研畫藝,今年除了二曲屏風之外,還出品了《芙蓉》和《紫陽花》的對幅。同樣在京都學習的野村誠月君出品了兩幅令人眼睛為之一亮的美人畫,其中一幅是京都舞妓的美麗畫作,描寫極為細緻。至於那位陳進女士,則出品了《針線活》和一幅美人畫,兩幅都是在場內引人注目的作品。林玉山君的《蓮池》也是一件非常大幅的作品。毎年以新的
嘗試 見稱的郭雪湖君,仔細描繪了懸掛在大稻埕街道的各式各樣看板,而被評為「看板的爵士(jazz)」。潘春源(譯註3)君描繪的本島(臺灣)人家庭内的情景等等,也是頗受好評之作。總之,洋畫(西洋畫)方面似乎也有很大的進歩,但東洋畫與去年相比,在時間上雖只差一年,作品卻有突飛猛進之勢,令臺展關係者喜不自勝。
審査員的 協商會
來自東京的臺展審査員南薫造、勝田蕉琴(譯註4)兩人,於(十月)十六日抵臺,臺展當局隨即於當天下午三點半在鐵道旅館召開審査員與幹事的聯合茶話會,審査委員長幣原坦、文教局長杉本良、社會課長野口敏治等其他出席者眾多,席間討論各種議題,下午五點過後散會。
臺展きのふで 搬入締切 西洋畫五八六點 東洋畫八○點
臺展搬入の第二日目たる十六日は朝九時から受付を開始したが此の日も終日小雨に祟られ製作品を運ぶ画家達は画面を油紙シブ紙等で蔽ふ等運搬にかなり骨が折れる様であつたが島内審査員の作品を初多くの
力作が 続々と持ち込まれ午後七時搬入締切までには西洋画二百九十三人、作品五百八十六点、東洋画五十五人、作品八十点に達した、之を昨年の搬入に較べるならば西洋画に於て二十一人、四十一点の増加であり、東洋画に於て十人、作品五点の増加を見せてゐる、加え数の増加ばかりでなく製作品も亦昨年に較べては遥に
優れた ものが集つた様であり西洋画に於てはシユールリアリズムの如き新しき傾向のものが現はれ、東洋画に於ても大和絵浮世絵画派風の作品が見られるに至つた事は注意すべき事であらうと思ふ
東洋画は 美しいもの揃ひ
臺展の東洋画は其の数こそ昨年と大差ないが其の質は著しく進んで来て初期の文展でも見るやうな絢爛さを見せて来たやうで郷原、木下両審査員なども驚いてゐる且つ臺展の花形画家が何れも争つて大作を出品し其の
美を 競つてゐる昨年の特選画家呂鉄州君は引き続き京都で福田平八郎氏につき研究を積んでゐるが本年は二曲屏風の外に芙蓉とあぢさゐの対幅を出品し同じく京都で勉強してゐる野村誠月君は眼の覚める様な美人画二点を出品、その一つは京の舞妓の美しい絵を極めて丹念に描き例の陳氏進女は『お針』とも一つの美人画を出品し何れも場中で眼を惹きさうな作品になつてゐる、林玉山君の蓮池も非常な大作毎年新しい
試み を見せて来た郭雪湖君は『看板のジヤズ』と言はれてゐる程に有ゆる看板を見せてゐる大稲埕の街上を実に克明に画いてゐる、潘春元君の本島人家庭内の情景なども評判になる作であらう兎に角洋画も大した進歩を見せたやうだが東洋画も唯一年の相違だが昨年などより図抜けて進んで来てゐるので臺展関係者も喜んでゐる
審査員の 打合会
臺展の東京よりの審査員南薫造、勝田焦琴両氏が十六日来着したので臺展では即日午後三時半から鉄道ホテルに審査員、幹事の連合茶話会を催し幣原審査委員長、杉本文教局長、野口社会課長その他多数出席種々打合す所あり午後五時過ぎ散会した
─原載《臺灣日日新報》,1930-10-17(日刊7版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯註1. 塗有柿漆的和紙,色呈暗紅,用於防寒・防水或物品包裝。
譯註2. 全稱為「文部省美術展覽會」,1907年由文部省主辦,從此開啟了日本官展的歷史;1919年改組為由帝國美術院主辦的「帝國美術展覽會」(帝展)。
譯註3. 原文「潘春元 」的「元 」為誤植。
譯註4. 原文「勝田焦琴」的「焦」為誤植。