以佐生
帝展審查員的小林萬吾氏,今年來臺擔任臺展的審查員。審査的結果,新入選的作家比預期的還多,而去年入選的作家中,今年也入選的人比預期的人數還少,這引起了我的好奇心,因此,招待日的下午便立即去觀賞了。 因為只是將作品全部瀏覽過一遍,現在就算看目錄,也有些會想不起來,故在此一邊參考目錄,僅針對留有印象的作品,寫下我的感想。 |
廖繼春氏的〈街頭〉 描寫的似乎是淡水的街景。不論是人物還是建築物或郵筒(post),都處理的非常妥當,令人佩服。廖氏另有出品一幅靜物作品〈有龍圖案之壺〉,也同様令人佩服。其技法之巧妙,是令人敬服之處。然而,所謂的繪畫並非如此廉價之物。畫一幅畫並不是在繪製一張見取圖(示意圖),作畫人的眼睛也不可能與照相機的鏡頭(lens)相同。從這幅畫,看不到作者的心(精神),只能看到進行創作的手(技巧),令人十分遺憾。也因此,畫面的呈現略嫌單調呆板,因為重心不見了,或者每個題材各自獨立,形成了割據的局面,總之這些都是因為作者並未具備在技巧之上的某個東西所致。
李石樵氏的〈後街〉 使用了非常好看的色彩,但絕非美麗的色彩。若能更深入地靜觀大自然,那種庸俗的色彩便會被精煉(refine)成高雅的色彩,畫面也同時會具有深度。
高橋清氏的〈臺南的後街〉 運筆的習慣有些怪異。畫的題材也很平凡。色彩好像有點髒,看起來很單薄。
柳德裕(譯註1)氏的紅褐色調的〈自畫像的習作(sketch)〉 就一張撲克臉掛在那裏。古川義光氏〈有蘋果的靜物〉的濃豔刺眼的色彩,讓人感覺壺裡放的是毒藥。中村操氏的〈植物園小景〉的花卉的那種濃豔的色彩以及那種畏畏縮縮的筆觸!讓人看得頭昏眼花。好不容易繼續向前,看到了鹽月善吉(桃甫)氏的〈油菜花〉,還有陳澄波氏的〈西湖運河〉,才稍微感覺舒暢。
鹽月善吉氏的〈殘木林〉 應該是阿里山。能將這種容易陷入單調乏味的題材處理得這麼好,可見作者技巧之卓越。描寫(dessin)也很紮實。而色彩之巧妙,更是牢牢地抓住了觀者的心,可以明確感受到深山的清澄的空氣在綠葉之間流動著,有一種想要深呼吸看看的衝動。從畫中,看得到作者的感動。再將之與掛在旁邊的廖繼春氏的〈有龍圖案之壺〉互相比較,這才猛然發現兩者畫格(畫的格調)的差異。鹽月氏的畫格若以精華液(extract)來比喻的話,廖繼春氏的畫格便是將之幾十倍稀釋過後的溶液。不過,貼在這幅畫下面的大張金色紙條,不怎麼令人舒服就是了。
素木洋一君的〈雞頭花〉 佳。色彩的效果相當不錯。不過,畫面有些單調,感覺頗為拘謹,這點不妙。很像是在重箱(撞盒)之中塞滿美食時的感覺。美食的話,當然是塞越多越好,但畫面的話,希望要保留一些喘息的空間。素木君的另一幅〈薊花和向日葵〉比此畫在空間安排上更好,但最重要的主角卻被背景吞噬了。
陳植棋氏的作品有〈三人〉、〈二人〉、〈桌上靜物〉 三幅。不論是構圖還是色彩、筆觸,感覺已從素人(外行)脫胎換骨了,這點的確了不起。在巨大的畫面上能如此自由奔放?的處理,令人刮目相看,但那是作者的本意嗎?還是因為如湧泉般止不住的感動才這樣?總覺得有點像是一時興起的作品。總之,與去年的作品相比,感覺較為廉價。
「畫是一種魔術」,曾有人這麼說過。看到了小林萬吾氏的〈春〉和〈秋〉,才恍然大悟。原來所謂的大師,指的是在作畫上以及在社會上,頭腦好又手巧之人。
石川欽一郎氏的〈大甲溪之夏〉 看到此畫的感覺,跟以前看到該作者其他作品時一樣。而且除此之外什麼也感受不到,令人遺憾。
陳澄波氏的〈龍山寺〉 在這面牆壁上光芒四射,而畫作的光芒就是作者的光芒。以偏黄的暖色調為基底,一筆一筆紮紮實實的顏料的存在,讓觀者感受到了難以言喻的魅力。在畫面上完全看不到單薄軟弱或亂七八糟的筆法,輕率的技術炫耀也都不存在。有的只是傾其所有的真情摯愛來描繪此畫,如此的作者之心可以從畫面上明顯感受到,實令人欣喜。
本名文任氏的〈淡水風景〉 樸實無華之處,是這幅畫的生命。是一幅不浮誇炫耀的畫。一幅天真無邪的畫。
倉岡彦助氏的〈百日草〉 是一幅非常認真的畫。但太過拘謹,看了肩膀會痠痛。
小笠MITSUE(譯註2)氏的〈少女〉 內容太過膚淺。乾脆拿去做某某公司的海報(poster)好了。
李梅樹氏的〈三峽的後街〉 這幅畫只不過是大自然的再現吧?而且再現的只有外在的形與色,流淌在其風景中的氛圍,被忘得一乾二淨了吧?總之,希望能透過畫面更清楚地看到作者的身影。
山本磯一氏的〈黃昏時分〉 天色漸暗的前庭,氣氛表現得不錯。色調處理沉穩、爽快,構圖也很適宜,是一幅好畫,但生長在前庭的樹木或放著的盆栽的距離並未被表現出來,這是很大的破綻。
末松勇氏的〈農村的平和〉 以輕盈的筆觸,享受作畫的樂趣。有表現出與畫題相得益彰的氣氛,但隨處揮灑的黑褐色的顏料,髒兮兮的,汙染了畫面。
山田新吉氏的〈Y的家族〉 可能是因為色彩,也可能是因為構圖,令人感覺非常庸俗拙劣。只是一幅適合掛在咖啡廳(café)牆上的畫吧!
竹內軍平氏的〈池〉 透過全神貫注的凝視,仿佛就要闖進某個深奧的境界,像是在探索大自然神秘似的,從畫中可以看見作家的這種作畫態度。不論是水池的色彩,還是樹木的色彩、天空的色彩,甚至連一個石塊,似乎都寓意甚深。這可能是作者直觀的敏銳度使然。
鹽月赳氏的〈有前庭的洋館〉 素雅的色調,令人感覺到無限的魅力。希望作者能認真地去靜觀大自然,讓如此魅力有其可以憑據的根基。
御園生義太(譯註3)氏的〈懸掛萬代蘭(Vanda)的庭園〉 畫面散發出的原始威力,令人心生畏懼,陳炳芳氏的〈靜物〉小心謹慎地描寫了每一粒水果,看了不僅油然升起憐憫之心。希望兩氏都能轉換一下創作上的著眼點。
蒲田丈夫氏的〈畫室(atelier)〉 比去年的〈聖多明哥(Santo Domingo)之丘〉尺寸較小,但表現非常紮實、沉穩。「畫不以大為貴」,不是嗎?
後藤大治氏的〈石磚步道〉 敏銳度不足。末梢神經的敏銳度,可以從精心描繪的一片一片薄薄的樹葉中窺知……。
鈴木千代吉氏的〈戲劇〉 有解説圖之類的感覺。刻意描繪小型面具,這也是一種低級趣味。
蘇新鎰氏的〈到三峽來〉 令人懷疑作者是否有藝術良心。
藍蔭鼎氏的〈練光亭〉 令人討厭的色彩和裝模作樣的筆觸,這些讓畫變得更加庸俗低級。是時候該思想轉換了。
片瀬弘氏的〈風景〉 似乎欠缺韻味。感覺不到畫裡的氣氛。
從這裡開始到最後的一幅,都只剩下一些令人感到不愉快的作品。尤其是掛在走廊上的緒方博氏的〈榕樹〉、蔡朝枝氏的〈南國的椰子〉、鄭獲義氏的〈靜物〉等等,發揮了充分的效果,使人對這個展覽會留有非常差的印象。第一回美術展覽會的時候就有如此感受,而今年更加糟糕。
走出會場,看到外面景色時,心情感覺得到了解放。這應該不會只是我一個人才有的感覺。這是真正的大自然之美,是不虛假之美,是不逢迎諂媚之美,而且是擁抱萬物之美。在畫面上表現這種美,正是作畫之人的工作,不是嗎?要描繪大自然,卻沒掌握住大自然的心,只是緊抓並蒐羅其形骸,再以貧弱的人類智慧拼湊出來,這樣的作品何其多。畫一幅模特兒(model)的見取圖,便心滿意足,這樣的作家又何其多。然而,擁有美麗的大自然作為創作背景的,是臺灣的作家們,是剛發出來的新芽。在這片風土上只要有這些人的存在,即使現在才開始也不嫌晚,期待他們今後的天真坦率又生動活潑的成長!
臺展の洋画を見る
以佐生
帝展審査員である小林万吾氏が今年は臺展の審査員として来られたことゝ、審査の結果新入選の作家が案外に多く昨年入選した作家の中で本年入選してゐる人が案外に少い数を見せて居ることは少しばかり私の好奇心をそゝつてゐたので招待日の午後早速見せていただいた。 何しろ一通りみただけで、今目録を見ても思ひ出せないものもあるが、目録を見ながら思ひ出すまゝに感想を書きとめて見度いと思ふ。 |
廖継春氏の「街頭」 たしか淡水の街の辻を描いたものらしい。人も建物もポストも手際よくやつてのけてあるのには感心した。同氏のにまだ静物で「龍のある壺」が出てゐたがそれにも同様感心した。その御器用さに敬服したのである。しかし絵と言ふものはそんなお安いものではなからうと思ふ。絵を描くことは見取図を作ることでもなからうし、絵を描く人の眼は写真機のレンズとは同じであらう筈もない。此の絵の中に作者の心を見出すことが出来ないで、只仕事をしてゐる指先だけしか見ることが出来ないのは残念だ。画面が平板になつたのも中心が影をひそめてしまつて、素材が夫々独立割拠してゐる形になつてゐるのも、要するに作者が技巧以上のあるものを待合はせて居られない為にさうなつたのではなからうか。
李石樵氏の「町の裏」 大変きれいな色が使つてあるが決して美しい色だとは思へない。もつと深く自然を観照したらあのけばけばしい色もリフアインされるだらうし、絵に奥行もついて来るにちがひない。
高橋清氏の「臺南の裏町」 妙な筆癖があると思ふ。画因も平凡だし。色彩も何だかよごれて薄つぺらに見えた。
柳徳治氏の赤茶けた「自画像のスケツチ」 が何の感激もない顔でブラ下つてゐる。古川義光氏「リンゴのある静物」のあくどい色は壺に毒薬でも入つて居さうに思はせる。中村操氏の「植物園小景」にある毒々しい花の色と、いぢけたその筆触!見てゐる中に頭が重くなる。やうやく次の塩月善吉氏の「菜の花」。陳澄波氏の「西湖運河」を見て少々、ほんの少々解放されたやうな気持がする。
塩月善吉氏の「残れる樹々」 阿里山だと思ふ。単調無味になり易い題材をうまくこなしてゐる所に腕の冴えが見える。デツサンもしつかりしたものだ。が色彩のうまさは見る者の心をより多く捉へてゐる。深山の澄み切つた空気が緑葉の間を流れてゐるのをはつきり感じることが出来る。深呼吸でもして見たい気持だ絵に作者の感激が見える。次に並べてある廖継春氏の「龍のある壺」と比較して今更ながらその画格の相違に驚く。塩月氏のをエキスに喩へると廖継春氏のは何十倍かの稀薄な溶液の様な気がする。然し絵の下につけてある大きな金札は余り感じのいゝものではないと思つた。
素木洋一君の「鶏頭の花」 はいゝ。色の効果が相当出てゐる。然し絵が平板になつてゐることゝ、少々窮屈な感じがするのは面白くない。まるで重箱の中に御馳走がぎつちり詰まつた時のやうな感じだ。御馳走なら多い方がよからうが画面にはどこか気の休まる所がほしいものである。同君の「あざみとひまはり」はこれよりゆとりはあるが、肝心な主人公が背景に吞まれてしまつてゐる。
陳植棋氏の作品「三人」「二人」「卓上静物」 がある。構図にも色彩にも、筆触にも、どこか素人ばなれのした所を持つてゐるのは流石にえらいもんだ。相当大きい画面を自由奔放?、にやつてのけてゐる所は大したものであるが、それが作者の本心だらうか?、止むに止まれない感激からさうなつたのだらうか?、何だか気まぐれな作品のやうな気持もしないでもない。とにかく昨年のものに比べて安つぽく感じられてならない。
「絵は一種の魔術だ」 と誰かが言つてゐた。小林万吾氏の「春」、「秋」を見て、なるほどと思ふ。所謂大家とは絵を描く上にも社会的にも頭のいゝ、手先のきく人を言ふのだと分る。
石川欽一郎氏の「大甲渓の夏」を見ると、一度前と同じことを感じる。そしてそれ以上に何物もつかむことが出来ないから残念なことである。
陳澄波氏の「龍山寺」はこの壁で光を放つてゐる。絵の光りは作者の心の光だとも言へる。黄色を帯びた暖色を基調として力強く一筆一筆置かれた絵具のたしかさが見るものに何とも謂へない力を感じさせる。薄つぺらなへなへなした若しくはくしやくしやした筆先の技巧は少しも見えない。軽卒な器用さはどこにも見出せない。唯温かい愛情の凡てを傾けて、この絵を描いた作者の心を明かに画面に認めることが出来るのが嬉しい。
本名文任氏の「淡水風景」 朴訥な所がこの絵の生命である。てらはない絵。無邪気な絵である。
倉岡彦助氏の「百日草」 大変真面目な絵である。少々窮屈で肩は凝るが。
小笠ミツヱ氏の「少女」 あまりに浅薄だ。××会社のポスターにでもしたら等と思ふ。
李梅樹氏の「三峡の町裏」 只自然の再現に過ぎないのではなからうか。しかも再現されたのは外面的の形と色のみでその風景に流れてゐる雰囲気が忘れられてゐるのではなからうか。とにかく作者の姿を絵を通してもつとはつきり見たいものである。
山本磯一氏の「夕暮れ」 蒼黒く暮れて行く前庭の気分はよく出てゐる。色調にも落付きのある爽かさを持つてゐるし、構図にも無理のない、いゝ絵だと思ふが、前庭に生えてゐる木や置いてある植木鉢の距離が現はれてゐないのが大きな破綻だと思ふ。
末松勇氏の「農村の平和」 軽い筆触で楽んで描いてある。画題に相応はしい気分は出てゐるが随所に使はれてゐる黒褐色の絵具がいやにきたなく画面をよごしてゐるやうに見受けられる。
山田新吉氏の「Yの家族」 色からもくるだらうし、構図からも来るだらうが非常に俗悪なものに感じた。カフエーあたりの壁に向く絵ではなからうか。
竹内軍平氏の「池」 ヂーツとみつめて何か深いものに突き入らうとしてゐるやうな、自然の神秘でも探つてゐるやうな作家の作画態度が見えてゐる。池の色にも樹木の色にも、空の色にも、石塊の一つにも何か深い意味があるやうに思はせる。作者の直観の鋭さがさうさせるのであらう。
塩月赳氏の「前庭のある洋館」 渋い色調に無限の魅力を感じる。自然を真面目に観照することによつて其の魅力を根底あるものにされんことを希望する。
御園生芳太氏の「ヴアンダ蘭を吊した庭」 を見て其の原始的な御威勢に恐縮し、陳炳芳氏の「静物」の御丁寧な一粒一粒を見て気の毒に思ふ。両氏とも着眼点の転換が望ましい。
蒲田丈夫氏の「アトリヱ」 昨年の「サンドミンゴの丘」に較べると小さくはあるが余程手堅さと、おちつきとを見せてゐる。「絵大なるを以て貴しとせず。」ではあるまいか。
後藤大治氏の「石をたゝむ道」 鋭さが足りない。末梢神経の鋭さは、丹念に描かれた薄の葉の一枚一枚によつて知ることが出来るが……。
鈴木千代吉氏の「芝居」 説明図といつた風な感じがした。わざとらしく小さな面を表はしたのも悪趣味だと思ふ。
蘇新鎰氏の「三峡へ来る」 芸術的良心の存在が疑はしくなる。
藍蔭鼎氏の「練光亭」 あくどい色と、ぶつた筆触は絵を一層俗悪なものにしてゐる。もう思想的転換の時機が来てもよい。
片瀬弘氏の「風景」 うるほひに欠けてゐるやうに思はれる。雰囲気が感ぜられない。
もうこの辺から最後まで不愉快なものばかりだ。殊に廊下に列べられてゐる緒方博氏の「榕樹」、蔡朝枝氏の「南国の椰子」、の鄭獲義氏の「静物」など、この展覧会の印象を非常に悪いものにするのに充分効果があつた。第一回美術展覧会の場合にもさう感じたのでああるが、今年は一層ひどいやうに思はれる。
会場を出て外を見るとまるで放たれたやうな気持がする。これは恐らく自分一人だけの感じではあるまい。ほんとの自然の美しさだ。偽らない美しさ媚びへつらはない美しさ、それでゐて凡てを抱擁する美しさだ。この美しさを画面に盛るのが絵を描く人の仕事ではあるまいか。自然を描かうとして却つて自然の心を取り逃し、その形骸だけを取りつけひきつけ描き集め貧弱な人間の智慧で揑ね上げた作品の何と多いことだらう。モデルの見取図を描いてそれで満足してゐる作家が何と多いことだらう。然し美しい自然の背景を持つた臺灣の人達だ。萌え出る若芽だ。風土にその人さへ居つたらこれからでも遅くはあるまい、素直に生き生きとした生長ぶりを見せて呉れるであらう。
—原載《第一教育》,第7卷第11號,頁91-96,1928-12-05
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯註1. 原文「柳德治」的「治」為「裕」之誤植。
譯註2. 目前這名畫家的生平不詳,所以名字只標其日文讀音。
譯註3. 原文「御園生芳太」的「芳」為誤植。