鷗亭生(譯注1)
觀看今年的臺展,首先令人感到欣喜的是,不論是西洋畫還是東洋畫,出品畫家們都以純真和認真的態度,埋頭刻苦創作,努力不懈。作品不論完成度如何,畫作只要呈現出腳踏實地、努力辛苦的痕跡,便能先贏得觀者的「感心(讚賞)」。
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若站在坦率的立場來批評的話,有許多作品都是頭腦的運用不足,僅憑雙手一筆一筆,謹慎地用盡所有時間和努力的結果。即便如此,不光是美術,任何事情若不勤奮努力,自我刻苦精進,便難以期待會有所成就。就此意義上,儘管也有不少的苦心似乎只是徒勞無功,但在面對其如此的用心與努力時,絕對沒有人忍心將之冷嘲熱諷地批評一番。臺展若排除了畫家的這種努力主義,究竟還剩什麼?ーー之類的說法,雖然也是事實,但自創辦後才僅舉辦過六屆的臺展,這種努力主義或許正是通往未來巨大成就與希望的康莊大道,不是嗎?
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在將西洋畫七十餘件看過一遍之後,令人痛切地感到畫家們對於「要畫什麼和怎麼畫」的大哉問甚為迷惘,多在舉棋不定的狀態下進行創作。以巨大確信和遠大希望來創作的作品,極為稀少,倘若偶而發現了佳作,那就一定是具備了「此點」的相當優秀的作品。這個事實在業餘畫家(amateur)居多的臺展洋畫(西洋畫)部尤其顯著,雖然這也是在所難免,但畫家自己應該多加深思才好。
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和田三造審査員之作《風景》,是取材自臺灣南部屏東一帶的寫生作品,也是一幅如實表現了「光線之明亮」的有趣範例。乍看或許不易察覺,但能如此率真地將所謂的明亮清澄之感表現出來的畫作,整個會場找不出第二幅。畫面上,大自然投射給畫家的烈日下的印象,歷歷在目。路傍的樹木投射在地上的濃濃的樹影、畫面右側的森林色彩的自由配置、天空的色彩等等,「這些」都必須是經過偉大修練的畫家才可能畫得出來的。而能將難以入畫的地點,如此出色地表現在畫布上,就其技巧與頭腦的運用,臺灣的畫家可以從此幅畫作學到的地方,想必不少。
(待續)
臺展の印象(一) ――作品に確信が無い――
鴎亭生
本年の臺展を観て、まづ第一に嬉しく思ひ感ずることは、西洋画東洋画を問はず出品画家が一様に純真さと真面目さとを以て只管刻苦し努力してゐることだ。画の出来如何よりも先づコツコツと努力し苦しんでゐるところに先づ観衆の「感心」を買つてゐる。
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有体に批評すると頭の働きが足らず唯手の先でコツコツ入念に時間と努力とを超越して画いてゐるといふ作品が多いが、然し美術だけでなく何事でも努力し自ら進んで苦しむのでなければ大成は期し難い。その意味で時には無駄な苦心も可なりある様ではあるが此の苦心や努力に対し冷評は決して加へられない、臺展から画家の此の努力主義を除いたら何が残るーーなどと言ふ考へ方もあるのは事実だが開設後まだ六回にしかならぬ臺展である、この努力主義こそ将来の大成と希望とへの大道ではないだらうか。
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西洋画七十余点を一通り見渡してさて痛切に感ぜられる事は画家が「何をどんな風に画かうか」といふ事を何れも迷つて、ふらふら腰で画いてゐるといふことだ。大なる確信と大なる希望とを持つて画がいてゐる作品は極めて少ない、たまに左様な作が見付けるとソレは必ず見られる相当立派な作である、この事実はアマチユアの多い臺展洋画部において特に著しいやうだ無理もないことだが画家自身としてはよく考ふべきことである。
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和田三造審査員の作『風景』は臺灣の南部屏東あたりを写生したもので『光線の明るさ』といふ事を如実に見せてゐる面白い作例と思ふ。一寸見たのでは気がつかぬがあれほど所謂明るい澄んだ感じを率直に与へてゐる作は場中何処にも見出されない。自然が画家に投げ付けた烈日下の印象がまざまざと見られる。路傍の立木が地上に投げてゐる濃い日蔭、右側の森の色の自由な配列、空の色等ソレは大きな修練を経た画家でないと画けないものには相違ないが、容易に画にならぬ場所をあの程度の作として描き出してゐる技巧と頭の働きとに就ては臺灣の画家は此の作から学ぶべき所が頗る多いと思ふ。
(つづく)
─原載《臺灣日日新報》,1932-10-26 (日刊6版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注1. 「鷗亭生」與「鷗汀生」為《臺灣日日新報》主筆大澤貞吉(1923年入社擔任副主筆,1931年昇任主筆)之常用筆名,「鷗汀」為其號。