鷗亭生

以呈現浮世繪風格之妙為目標,細筆一一精密描繪的是村上英夫君的〈基隆燃放水燈圖〉。質樸筆法中帶有「時代味」,作者極盡用心想表現枯淡風格,這點頗為有趣。例如為此將祭典隊伍中的人物或看熱鬧的群眾,故意畫得好像人偶等等,可見其細心設計。然而,就構圖與技巧上來看,缺點是整幅畫找不到視覺焦點,整個畫面空間欠缺餘裕。此外,裝飾天地的金雲,更是蛇足。即便如此,臺展第一回就能挖掘出如此高水準構思與技巧的作品,堪稱幸運。村上君的另一件作品〈七面鳥(火雞)〉,是其得意題材,聽說每年必畫,然而,線條生硬,畫不出渾然一體的火雞,與往年平福百穗出品帝展、引發話題的火雞作品,實無法相提並論。僅次於以上作品的佳作,其實沒有特別值得提出來說長論短的作品,但首先在南畫方面有加藤紫軒的〈太魯閣峽〉和〈群山層翠〉的兩幅作品。技巧相當卓越,但這兩件作品都欠缺以雅趣繪景之妙,只是茫然地描寫山姿。直言之,還是忘了讓畫面聚焦。而單調的墨色畫法,畫到最後一筆也無任何變化,對觀者而言,沒有比這個更折磨人的了,這點很可惜!雖是業餘畫家(amateur),大岡春濤君的雙幅作品〈活的英靈〉是相當用心的作品。取材自蕃界傳說,光是對題材上的用心,就值得嘉許。至於作品本身,右幅比較沒有問題,但左幅的蕃人圖之拙劣,不足以評論。但像這種取材上的新味,今後值得多加鼓勵。井上一松君的〈孔雀〉等畫作,尚可。陳進小姐的三件作品中,還是〈罌粟花〉最佳。從人物衣裳的細膩技巧(作品〈姿〉),或畫百日草的作品〈朝〉上,也可窺知畫家的天賦,但〈罌粟花〉一作,有點脫離純粹寫生,表現出一種浪漫的藝術境地的跡象,將來想必前途無量。砥上如山君的〈南國清秋(譯註1)〉雖是以木瓜為題材的小品,但非常具有新味,佳。希望在技巧方面也能多一些如此用心之作。伊坂旭江君的三件作品中,以〈伯牙待成連〉較佳。總之,繪畫的要點為取材第一、構圖第二、技巧第三,為了追求新味和打破平□,若不刻苦奮發,將無法創造出傑作,而觀畫者方面,要求的也是更具思想內容的畫作。(□)


臺展評 東洋画部 (二)

鴎亭生

浮世絵風の旨味を狙つて相当丹念に克明に画き出してあるのが村上英夫君の『基隆燃放水燈図』である、朴素な描法の中に『時代味』をもたせて出来得る限り枯淡の臭いを出さうと苦心したところに面白味を覚える、祭りの行列の人間や見物の人々を態と人形振りに描出してある所なども其の為めの細心の用意と見てよい、然し之を構図と技巧上から言ふと、絵に中心と見るべきものなく全画面に余裕が乏しいのを難とする、且天地の金雲なども寧ろ蛇足である、とは言へ臺展の第一回に此の程度の意匠と技巧とを示した作品を発見し得たことは仕合せと云ふべしである、同君の他の一作『七面鳥』は、この画家得意の題材で毎年画いてゐるといふに拘らず線が生硬で渾然たる七面鳥に成り切れず、往年平福百穂君が帝展へ出品して評判になつた七面鳥などとは較ぶべくもない以上に次いでの佳作としては一長一短特に取り立て推す程の作もないが、先づ南画として加藤紫軒君の『太魯閣峡』及び『群山層翠』の二作がある、腕は相当に冴えてゐるが、二作とも雅趣凝つて景を成すの妙境なく唯だ漫然たる山姿を画けるのみ、平たく言へば矢張画面に中心点を画き忘れてゐる、単調な墨色画が無変化に終つてゐる位観る上に骨の折れるものはない、その点惜いと思ふ、アマチユアではあるが大岡春涛君の双幅『生ける英霊』は、可なり苦心した作だ、蕃界の伝説に取材したもので此の題材上の苦心丈けは先づ買つて遣らねばならない、作品としては右幅の無難なのに比し左幅蕃人の図が余程劣つてゐて批評外にあるやうだが、斯うして取材上の新味は今後大いに推奨すべきものである、井上一松君の『孔雀』などは先づ無難、陳氏進嬢の三作では矢張『けし』が一番佳い、人物の衣装の細かい技巧や百日草を画いた『朝』などにも、画家としての天分は充分認められるが『けし』の一作純写生から離れて一種の浪漫的な芸術境を作り出さうとする形跡を幾分ながら想はしめる、将来必ず伸びるであらう、砥上如山君の木瓜を扱つた『南国清牕』は小品ではあるが、相当に新味もあり佳い技巧上からも斯うした苦心作が出て欲しい、伊坂旭江君の三作の中では『伯牙待成連』が佳い、要するに絵は第一取材、第二構図、第三技巧の順序で凡て新味と平□打破の為めに思ひ切つて刻苦せねば大作は出来ない、絵を観る方ではもつと頭の働いてゐる作品を要求する。(□)

—原載《臺灣日日新報》,1927-11-01(日刊2版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 原文的「南国清牕」為「南國清龝」的誤植,「牕」為「窗」、「龝」為「秋」之異體字。