鷗亭生

來寫一下臺展的美術批評看看。首先從東洋畫開始,然而,稱之為「東洋畫」的理由,實在令人費解,因為這些畫作其實並非東洋畫,而是純粹的日本畫,若一定要稱之為東洋畫的話,就應該入選更多具有東洋(Oriental)畫風的作品才對,例如四君子樣式的作品或南北宗風格的山水畫,總之,除了純日本畫之外,應該選納更多具有東洋畫風的作品,否則不配稱為「東洋畫部」,希望主辦單位從第二回起可以認真思考這個問題並予以改正。「那個」問題就此打住,在瀏覽過這個第一部(東洋畫部)三十六幅的作品之後,發現並無任何稱得上卓越的逸作,不過,因為「這」是第一回,所以也是理所當然,故本篇美術批評將除了繪畫的鑑賞方式,也針對畫家的技巧上以及題材的選擇、製作上的著眼點等等,直抒己見,如有冒犯之處,尚祈見諒。在會場中,首先成為討論焦點的是審查員鄉原古統君三幅一組的〈南薰綽約〉以及同樣是審查員的木下靜涯君的〈日盛〉與〈風雨〉、村上英夫君的〈基隆燃放水燈圖〉。〈南薰綽約〉係取材臺灣獨特的花鳥,其目的在於以日本畫表現南國式的氣氛,因此,這組作品是日本畫中難得一見的高彩度作品,然而,例如第一幅取材鳳凰木之作,流於圖案形式,只是細緻技巧的墮落,與取材金雨樹的第三幅一樣,不具有裝飾畫以上的藝術價值。「這」是因為首先失敗在取材,即使作者擁有高超技巧也無施展餘地。就「那」點而言,取材夾竹桃的第二幅,較無缺點也頗為有趣。希望技巧優秀的畫家,在取材上或創作目標上能夠多下一些功夫或多深思。木下靜涯君的兩件作品中,以墨繪(水墨畫)的〈風雨〉較佳。乍看覺得有些寂寥,但若再細看,則饒富趣味。畫題是「風雨」,但讓人更想為之取名「驟雨」,作者能將不容易掌握的水墨畫,表現地如此淋漓盡致,技巧堪稱卓越。〈日盛〉雖不令人討厭,但也看不到「就是這個!」的特別可取的新味(新表現)。


臺展評 東洋画部(一) 

鴎亭生

臺展の美術批評を書いてみる、先づ東洋画から始めるが、之を特に『東洋画』と称した理由が実は解するに苦しむ、之は東洋画でなくて寧ろ純然たる日本画である、若し強ひて之を東洋画と言ひたいなら最つと広くオリエンタルの画風を持つ作品を取り入れねばならない、四君子式のものでも或は南北宗画でも宜しい、要するにもつと純日本画以外に広く東洋画風をもつ作品を集めねば東洋画部なりとは言へない、次回からは篤と考へ直しで欲しい。ソレはそれとして此の第一部三十六点の作を一覧するに、特別に抜群の逸作といふ程のものはない、コレは第一回でもあるし無理もない、従て此の美術批評も、或る点では絵の見方、或る他の点では画家の技巧上及び題材の選択、製作上の眼の着け所等について思ふ儘を書く事にする、無遠慮なる点は寛恕ありたい、場中に於て第一に問題となる絵は、先づ審査員郷原古統君の三幅対『南薫綽約』及び同じく審査員木下静涯君の『日盛』『風雨』と村上英夫君の『基隆燃放水燈図』位のものである、南薫綽約は臺灣独特の花鳥を取り扱つて日本画で南国式の気分を出さうとした所に狙ひ所を見出す、従て日本画に珍らしい色調の高い作となつてゐるが、第一の鳳凰木を取扱つた一作の如きは全く図案式のものとなり細かい技巧に堕して金雨樹を取扱つた第三の作と共に装飾画としての価値以上に余り多くの芸術価値を見出せない、コレは第一に取材上の失敗で相当に達者な技巧も施すに余地ない事を想はしめる、ソノ点になると寧ろ夾竹桃を画いた第二作の方が無難で面白味もある、相当に技巧上の腕を持画家は取材若くは狙ひ所に一段の工夫と潜思とを希望する、木下静涯君の二作では墨絵の『風雨』が佳い、一見して淋しい感じはするが凝つと見てゐれば相当に面白味が滲み出てくる、画題は『風雨』と言ふより『驟雨』と名づけたい位で画き悪い墨絵をコレ迄にこなしてゐる所は先づ達者と言つてよい、『日盛』も厭味はないがコレぞと取立て言ふ程の新味は見出せない

—原載《臺灣日日新報》,1927-10-30(日刊5版)

(辨識、翻譯/李淑珠)