一記者

我對臺灣一無所知(blank),更不知道臺展或是繪畫,特別是談到批評,完全就是腦袋一片空白(blank),因此,我認為對藝術家們一年辛苦耕耘的成果,只用一支筆(pen)寫個兩三行的文字將之批評一番,實在是很過分,更令人感到懷疑的是將之分為好幾類,貼上某某畫派標籤的冷漠做法。然而,即使是如此無知的我,也對瑪麗・羅蘭珊(Marie Laurencin)畫的還是誰畫的惹人憐愛的〈花卉的靜物〉產生想要把它從牆上拿下來帶回家的衝動,或是也會有想要抱著Marumoru(譯註1)的少女胸像流浪天涯的遐想,所以在此想以這樣的水準來聊一下看完臺展的感想。然而,看完這次的臺展,並未發現有想從牆上拿下來帶回家的作品,既然沒有讓我怦然心動的作品,當然也就沒有發現能把我的心撕裂、打破甚至用力摔碎的作品,是我的心的感受性已經遲鈍了嗎?即便已經遲鈍了,但在吾之眼底也仍舊會對卡里埃(Eugène Carrière)的〈顔〉、梵谷(Vincent Willem van Gogh)的〈自畫像〉、雷諾瓦(Pierre-Auguste Renoir)的〈裸女〉,或進入冥想或燃燒熱情,然而,能給予我如此印象的傑作,即使是帝展或是二科展,也少之又少。留在我心裡的傑作其實也還有,例如亨利・盧梭(Henri Julien Félix Rousseau)或塞尚(Paul Cézanne)。而欣賞這次臺展時,居然發現盧梭或塞尚的幽靈或高更(Paul Gauguin)的臉孔,隨處可見。美術家啊!拜託別把觀眾當成笨蛋!因為就連笨蛋如吾,也看得出「你們都是幽靈」,你們是假的鏑木清方(譯註2)、阪本繁二郎、和田三造!

◇   ◇

從入口進去之後,便看到「朝天宮的祭典」在一幅畫裡,看起來雖然很熱鬧但卻凝結住了。在朝天宮之前的廣場,有身穿和服或洋裝的男男女女,有本島(臺灣)人、支那(中國)人,熙熙攘攘,盡情享受慶典的氣氛。令人莞爾(humor)的群眾,宛如被截取了一分鐘的影像(film)般,呈動作凝固的姿態。作者施玉山君一定就是帶著像那樣滑稽的假面,邊微笑邊作畫的吧!〈從內房看出去〉是以女性的謙恭謹慎的態度來描繪的。黃華仁氏之作。特選〈秋聲〉,來到陳進氏的這幅畫之前,畫面上找不出任何有損格調的破綻,是臺展最高傑作之一,但總覺得在哪裡見過,對,就是那個女人!身體的輪廓很像,模特兒(model)即使每天都重複相同擺姿(pose),也不可能在同一時間同一地方遇到一樣的兩個人,但觀賞此畫時卻有這種奇妙感受。就算對法律無知,犯罪也會受到制裁,藝術也是同樣道理。但為何一定要這樣對無辜的畫作,產生質疑呢?我想拒絕評論的原因也在此,但希望讓人產生質疑的作者,也要反省一下。

與〈秋聲〉並掛的是郭雪湖氏的特選〈春〉,以細緻的筆觸及耐心,把畫面處理的很好。畫面中流露出的是如畫題「春」一般的藝術家的清新感。徐小六郎氏的〈朝〉,是南畫風格的淡彩水墨畫。早晨的樹、□霞之中這一刻正在紫光下甦醒的屋頂和山岳,表現得很好。

(野村)誠月的〈夕暮〉,是新興大和繪風格或浮世繪風格,描寫身穿綠衣的立姿美人在傍晚時點燈的情景。蠟燭呈現的淡黃色火焰,就是作者的意圖所在。

野間口墨華氏的〈長閑〉,是一幅淡彩水墨畫,描寫臺灣田邊的河岸。在河邊戲水的上百隻家鴨以及遠離塵囂的老翁和童子。很有臺灣的氣氛,討人喜愛。審查員木下靜涯氏的南畫〈雨後〉,佳。尤其是河邊雨後的空氣,遠處的高山和流雲、小船的影子映照在水面上,停在樹上的白鷺鷥也正注視著〈雨後〉的山河,令人不禁想起芭蕉俳句:「安撫馬兒的騷動 環顧四周 明晨會降雪吧」(譯註3)。走到審查員鄉原(古統)氏的南畫〈山水圖〉(譯註4)之前,畫面分為三個部分,許多皺褶的高山、遠處的民屋與白色牆壁、似在水中游泳般的小船以及洗衣服的婦人們,這是一幅在素樸之處展現腕力的畫作。


臺展評(上)

一記者

私は臺灣といふものに就いてブランクだ、ことに臺展といふもの絵画と云ふもの特に批評と云ふことに就いては全くブランクだ、だから私は芸術家達が一年の精進の結果を二三行のペンの走りで批評などやらかすといふことはもつての外だと思つてゐるし、更にはこれを幾つものグループに分けて何派何派といふ極印をつける冷やかなやり方に対しても疑つてゐる、然し私にしても全く可憐にかゝれてゐるローランサンだつたか、誰かの『花の静物』ははづして持つて帰りたい衝動にかられたり、又マルモールの乙女の胸像を抱いて行方もなく漂浪したいと云ふ様な感くらいは持つた事はあるから、その程度に臺展を見た感を述べて見たい、然し今度の臺展を見ると壁からはずして持つてかへりたい様な作品はなかつた心をひきつける様な作品はない位だから私の心をむしり、打ち撃ち砕き更には叩き付ける様な作品も見当らなかつた、私の心が感受性が最早鈍つたのだらうか?鈍つたとしても僕の眼底にはまだカリエールの『顔』がゴツホの『自画像』が、ルノアールの『裸女』が冥想したり、燃えたりしてゐるのだ、然しこんな印象を受けるのは帝展や二科にだつて極稀れにしかない。私の心に残つてゐるものはまだある。アンリー・ルソーやセザンヌだ。だが今度の臺展を見るとアンリー・ルソーやセザンヌの幽霊やゴーガンの顔があちこちにある。美術家よ、観衆を馬鹿にしないで呉れ、僕みたいな馬鹿者にも『お前は幽霊だぞ』と見やぶる事が出来る、お前は偽の鎬木清方だ、阪本繁二郎だ、和田三造だ

◇   ◇

入口を入ると(朝天宮のお祭)が一幅の画の中に賑に然し乍ら凝結してゐる、朝天宮の前の広場には和服洋装の男や女本島人、支那人が入り乱れて祭の気持にひたつてゐるユーモアな気分の群衆が一分間フイルムが切れた様に立ち止つた形だ、作者施玉山君はあの滑稽な仮面を微笑しながら描続た事だらう『内房より』は女性のつゝしまやかさを以てかいてある、黄氏華仁氏の作である、特選『秋声』陳氏進氏の前に来る何ひとつとして調子を破るものゝない臺展最大傑作のひとつだ、だが然し私は何処かで見たんぢあないかと思つた。あの女の人にだなる程人の形は似かよつてゐるしモデルは毎日同じポーズを繰り返しはするが同じ二人の人に同時に同所で会つたことは生まれてないのに私はこの絵を見てそんな妙な事を感じてしまつた。法はたとへ知らぬとしても裁かれる芸術も同じことだ。何故無垢な作をこんなに疑はなければならないのだらう、だから批評は御免と云ひたくなるが、ならせる方も考へて欲しいものだ『秋声』にとなれる郭雪湖氏の特選『春』は細緻な筆で根気よく然もよく画面をまとめてある画面に流れるのは画題『春』の様な芸術家のすがすがしい感じだ徐小六郎氏の『朝』は南画風の淡彩水墨である、朝の樹、□霞の中に今、紫光に覚める家根と岳はよくかゝれてゐる

誠月氏の『夕暮』は新興大和風又は浮世絵風の緑衣の立美人が夕暮灯を点す所だ、黄色い淡いローソクの火の色そこに作者の意図がみえる

野間口墨華氏の『長閑』は臺灣の田辺の河岸の淡彩水墨である河辺に遊ぶ百羽家鴨と浮世を外にする翁と童子である、臺灣の気分が出てゐるのは嬉しい、審査員木下静涯氏の南画『雨後』はいゝ、特に河辺の雨後の空気はいゝ遠くに流れる山と雲、小舟の蔭も水面にたゞよつて樹上にとまる白鷺も『雨後』の山河を見てゐる『馬をさへ眺むる雪の朝かな』の芭蕉の句がひとりでに浮んで来る、審査員郷原氏の南画『山水画』の前に行く、画面は三つに別れてゐるしわの多い高い山と遠くの家並と白壁水に泳ぐ様な船と洗ひ物する女達素朴な所に底力のある作だ

─原載《臺灣日日新報》,1929-11-16(夕刊2版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 目前查不出「マルモール」是誰,故僅標示其讀音。

譯註2. 原文「鎬木清方」的「鎬」,為「鏑」的誤植。

譯註3. 此為松尾芭蕉〈野ざらし紀行(荒野紀行)〉中之句,「朝」字附有平假名的「あした(明日)」。

譯註4. 原文「山水畫」的「畫」,為「圖」的誤植。