在島都臺北,秋之美術季節不久即將來臨,連咖啡廳的包廂裡也都在談論臺展迎接第四回展的話題。人們都很期待一年比一年茁壯的臺展的英姿,而距離臺展的搬入也只剩半個月,畫家們應該已經在畫布上畫下最後的一筆了吧……展覽會的主辦單位臺灣教育會於(九月)二十九日中午在展覽會場的舊廳舍(今欽差行臺)舉辦了午餐會,招待臺北記者團。出席者有記者二十名以及臺展副會長杉本良、審査委員長幣原坦、審査委員的鄉原古統、木下靜涯、石川欽一郎、鹽月桃甫、社會課長野口敏治、學務課長若槻道隆等人。首先是杉本副會長致開幕辭,接著是蒲田(譯註1)組長就會場的
設備 加以説明,幣原委員長陳述其對繪畫鑑賞的見解,大家暢談各種議題之後,於下午兩點散會。充當臺展會場的舊廳舍,前幾年盲啞學校(今臺北市立啟聰學校)(譯註2)移管給臺北州之後,此處一淨空,就立即進行整修以作為展覧會場,内部的柱子更換和壁面油漆的重新粉刷也已大致完成,比起前幾年一直作為會場的樺山小學校講堂,中庭既寬廣、採光條件也佳,房間太小是
缺點 ,但據說有設置休憩所和喫茶部的計畫,對出品者來說很方便,對鑑賞者來說也能夠以一種輕鬆的心情來欣賞畫作。關於新會場,石川審査委員有以下的談話:
不滿的地方也不是沒有,但相較於樺山小學校,此處是市中心,而且會場裡面有片草坪,有舒壓效果,是可喜之處。然而,可以展示畫作的牆壁「間」(譯註3)數,東洋畫六十六間、西洋畫六十九間,與在樺山展出時相比只多了十間左右,而現在,畫面的尺幅傾向越來越大,所以要同時懸掛很多幅畫作,勢必不太可能。但我個人的想法是,即使表現不盡理想,也希望盡量多入選幾幅,並且盡量讓更多人能夠欣賞到這些畫作。
臺灣教育會で 記者團招待 臺展につき
島都臺北にも愈々秋の美術のシーズンが近づいた、カツフエのボツクスにも第四回を迎へる臺展の噂がのぼる、人々は年一年と成長する臺展の輝く姿を楽みに待つてゐるのだ臺展の搬入も後半箇月に近づいた画家達は最後の筆をカンパスに載せてゐるであらう……展覧会の主催者たる臺灣教育会では二十九日正午臺北記者団を招待し展覧会場に当てるべき旧庁舎に於て午餐会を開いた、出席者は記者二十名と、杉本臺展副会長、幣原審査委員長、郷原、木下、石川、塩月の各審査委員、野口社会課長、若槻学務課長等であつた先づ杉本副会長の開会の辞に次いで蒲田係長は会場の
設備 に就いて説明をなし幣原委員長は絵画鑑賞に就ての所感を述べ終つて種々懇談の後午後二時散会した、臺展会場に当らるる旧庁舎は先年盲唖学校が州移管後此処を引払つてから展覧会場とすべく修理を急いでゐたもので内部は柱の入替へ壁の塗りかへも大概終つて、先年まで会場にあてられてゐた樺山小学校の講堂にくらぶれば中庭も広く、採光の具合もよく部屋の小さ過ぎるのは
欠点 であるが、休憩所も出来喫茶部も設けられるといふから出品者にとつても都合がよく鑑賞者にとつてもずつとゆつたりとした心持で絵を味ふ事が出来る様になる訳である、新会場に就て石川審査委員は次の如く語つた
不満な点も無い事はないが、樺山小学校に較ぶれば此処は市の中心でもあり、且会場の中に芝生などもあつてゆつたりしてゐるのでうれしいと思つてゐる、然し画を陳列する壁の間数は東洋画六十六間、西洋画六十九間で樺山の時と較へて十間位しか増してゐない為に画面が段々大きくなる傾向を見せてゐる現在では多数の絵を並べる事は勢ひ不可能であらう、然し自分としては少し位不体裁でも成るべく多く選に入れ、成るべく多くの人から鑑賞して貰ひたいと希望してゐる
─原載《臺灣日日新報》,1930-09-30(日刊7版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
譯注1.可能是大阪朝日新聞臺北支局長兼臺展幹事的蒲田丈夫,既是臺展幕後的催生者,也是臺展作家,曾入選第一至四回(1927-30)臺展西洋畫部。
譯注2. 創設於1917年,初名「木村盲啞教育所」,1920年改名「私立臺北盲啞學校」,1928年改制為「臺北州立臺北盲啞學校」。
譯注3. 日本的長度單位,一間等於六尺,約一・八公尺。