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她畢竟也是一個年輕女性……

從長期的單身生活走入家庭愛

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啟程前往基隆的黃華仁女士

開在北臺灣的一角,那充滿詩情畫意的淡水土地上並飄香滿全臺的一朵花――高等女學校剛畢業、那位以高雅畫風風靡全臺的本島(臺灣)人女流畫家――無庸置疑,那便是臺北市元園町的黃華仁女士。

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今年二十六歲,風華正茂,總是穿著合身、合宜的服裝。眼神中閃爍著智慧,魅力四溢,接待訪客時的親切態度,加上她在臺灣畫壇的聲譽,不愧是臺灣女性中的明星。

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黃女士於大正十一年(1922)四月入學臺北第三高等女學校(今中山女中),昭和二年(1927)該校的講習科畢業,在學期間,藝術才華就得到了日本畫大師、亦是該校圖畫老師的鄉原古統氏的認可,並受其影響和指導。

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教育對於一個人的天性的影響之大,毋庸再贅言。舉例來說,第三高女培養了很多傑出的女流日本畫家,但歸根結底,這是鄉原老師以及致力於推廣東洋藝術的小野正雄校長等人努力的成果。

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黃女士於昭和二年以優秀的成績自該校的講習科畢業之後,憧憬的東京留學,也因為家庭原因,未能實現,只能懷抱埋沒才華的遺憾,到臺北州金瓜石公學校就職,成為了一名鄉下教師。然而,研究精神之強烈更勝男子的她,為了不輸給在東京留學中的友人,於是一邊忙於教育事業,一邊積極致力於繪藝的精進。結果,努力終於得到了回報,出品去年譯注(1)十月的第一回臺灣美術展的東洋畫《從内房往外看》順利入選,與榮獲特選的陳進女士一起被推崇為綻放於常夏之島的兩朵女流畫家。

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然而,她畢竟也是一個年輕女性。直到最近,二十六歲的她還將美術當作最愛的戀人,一心一意努力精進畫藝,拒絕了諸多良緣,但心中總是隱隱感到一絲難以排遣的寂寞感。於是,她去年辭去了訓導譯注(2),與總督府水産課勤務的康健時氏喜結連理。

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而且今年四月一日隨著夫君的轉調基隆,一同前往赴任。剩下的問題是,黃女士在臺灣畫壇的進退。婚姻成為生活重心,對其畫業會有何影響?這點應該就是眾所關注的。黃女士本人應該也比任何人都更加小心謹慎地在審視自我吧!(照片是黃華仁女士)


臺灣文化を彩る 本島人女性(八) 畫壇に咲き出た花 どう實を結ぶか

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矢張り彼の女も若い女性……

長い独身生活から家庭愛へ

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基隆へ去つた黃氏華仁女史

北臺灣の一角、詩趣豊かなる淡水の地に咲いて全臺灣に匂ふ一輪の花――高等女学校を卒業した許りであの気品ある画風を全臺灣に轟かした本島人女流画家――それはことわる迄もなく、臺北市元園町の黃氏華仁女史である。

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当年取つて廿六歳の花盛り、何時見ても体にぴったりと合つた調和のとれた服装をしてゐる、理智に輝く眼に、溢るゝ愛嬌とをたゝへて訪客に接する如才無さ、臺灣画壇に於ける芳名と合はせて正に臺灣女性中の花形である。

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女史は大正十一年四月臺北第三高等女学校に入学し昭和二年同校の講習科を卒業したのであるが、同校在学中から早くもその画才を日本画の大家であり同校の図画の先生である郷原古統氏に認められその感化薫陶を受けたのである。

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教育の方が個人の天性に及ぼす影響の大なる事は今更云ふまでもないが、その一例として第三高女から傑出した多くの女流日本画家を出してゐるのも畢竟するに郷原先生と東洋芸術の鼓吹に努めてゐる小野校長等が努力の賜ものと云はねばならぬ。

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女史は昭和二年優秀な成績で同校の講習科を卒業したが憧れの東京留学も家庭の都合で実現出来ずあたら惜き天分を抱いたまゝ一田舎教師として臺北州金瓜石公学校に職を奉ずる事となつた、しかし乍ら男まさりの研究心に燃えた彼の女は、上京留学中の友人に負けまいとの一念から、育英事業にいそしむ傍ら鋭意専念画道に精進した結果、遂にその努力が報いられて昨年十月の第一回臺灣美術展に出品した東洋画『内房より』が目出度く入選し特選に推された陳氏進女史と相並んで常夏の島に咲く二輪の女流画家として推称されるに至つたのである。

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しかし彼の女も、若い女である。二十六歳の最近迄美術を最愛の恋人として画道に精進し最多の好縁を退けて来た彼の女ではあるが、矢張り、そこには、やるせない一沫の淋しさを感ぜないではゐられなかつた。で、彼の女は昨年訓導を辞して、総督府水産課に出てゐる康健時氏と目出度く華燭の典を挙げたのである。

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そして本年四月一日の夫君の基隆転勤と共に赴任地に去つた。そこで残された問題は、臺灣画壇に於ける女史の進退である。結婚を中心として如何なる変転を見せるものであらうか?恐らく女史を悉くが注目してゐる所であらう。女史自身としても、誰よりも以上に細心の注意を以つて自己凝視をしてゐる事であらう(写真は黃氏華仁女史)

原載《臺灣日日新報》,1930-06-08 (夕刊2版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯注(1) 因第一回臺展是1927年舉辦的,故原文的「昨年」應為筆誤或誤植。

譯注(2) 當時公學校教師的職稱之一。