在文化設施上感覺總是居於落後的本島(臺灣),近年來有一群畫家持續著精彩的創作活動,且頻繁公開展出作品,滋潤了荒涼的本島藝術界,實令人感到欣喜不已。此外,在繪畫技巧方面,本島美術界一年比一年明顯有長足進歩的趨勢,如此,本島畫家的技術在不久的將來,應該就能達到内地(日本)畫家所具備的技術水準(level)。然而,反過來從藝術的新貌來看本島畫家時,也會發現許多令人感到遺憾之處。不用說,藝術是從對新時代的理解以及獲得新技巧的努力出發,當然,此處所謂的「新」,並非新奇癖好或在偶然的機緣下憑空想像的「新」,而必須是有其歴史的必然性、具有合理性價値的「新」不可。以此角度來審視本島美術界時,吾人不得不質疑本島畫壇真的有藝術家的存在嗎?因為本島畫家畫的通常是前人的模仿,公開的也都是時代落後的作品,描寫人物時追求唯美與肖似,描寫風景時不理會描寫對象的社會意義,只是茫然地或以抽象的審美意識,架好畫架(譯注1),朝向畫布(canvas)揮灑顏料,殊不知時代早已不同,卻不但完全沒有顯示出有理解「新」時代的精進的痕跡,就連個影子都無,每一次在展覽會上呈現給觀眾的,都是舊有題材及舊有表現,不見任何具有敏鋭的新時代美感(sense)的表現,而此點正是藝術家的存在有其合理性的唯一認定標準。更糟糕的是賣畫主義的露骨的表明與對世俗的阿諛追隨,如此一來,作為藝術品其價值受到高度評價的繪畫,淪為了一個的把玩品,若只是以把玩為目的的繪畫,其作為藝術品的假面早晩會被揭穿,若是藝術品,那麼就非得具備新時代的意識不可。本島畫壇如今也面對這樣的岐路,面臨鄉土藝術的新誕生的機運,吾人除了期待看到今年秋天舉辦的第五回臺展之外,也希望本島畫家能多加反省與深思。
臺灣と藝術良心の問題 臺展を前に有りの儘を言ふ
文化的施設に於て兎角立後れの気味にある本島に於て近年来画家の一群が華々しき活動を続け頻繁に作品の公開を行ひ、荒涼たる本島芸術界を潤しつゝある事は誠に喜ばしき事と云はねばならない。然も絵画の技巧を通じて見る時本島画界の趨勢は年一年と長足の進歩を遂げつゝ有る事も又明である斯くて本島画家の技術は近き将来に於て内地に於ける画家の有する技術のレベルにまで達するであらう、然し乍ら飜つて芸術の新骨頂から本島画家を見る時遺憾に思ふ点も亦た多々あるを発見する、言ふ迄もなく芸術は新しき時代への理解から、又た新しき技巧の獲得への努力から出発する、勿論此処に言ふ新しさとは新奇を好む、遇然の空想から成立する新しさではない、それは歴史的に必然性を有する、合理的価値を有する新しさでなくではならないが、斯る見地に立つて本島画界を眺める時、吾人は果して本島画壇に芸術家存在するや?との疑問を発せざるを得ない、描く所は常に先人の模倣であり、公開されたものは総てが時代に眠れる作品である、人物を描くには美しく、よく似せて、風景を描くには対象の社会的意義の何等の把握なく漫然と、或は抽象的美意識から書架を立てカンパスに向つた時代はとうに行き過ぎた事を知らぬ、新しき、時代の理解に対する精進の跡はかくて、その片鱗だも示されてはゐない、展覧会毎に観衆に曝されるものは解り切つた事の解り切つた表現である、これに依つてのみ芸術家の存在が合理的と認められてゐる鋭い新時代のセンスの獲得表現がない、そして尚更に悪い事には売らん哉主義の露骨な表明であり、世俗への阿諛追従である、斯くては芸術品として価値高く評価される絵画は一箇の玩弄品と成り下る、玩弄が目的の絵画ならば芸術品としての仮面は早晩脱がねばならず、芸術品とならば新しき時代の意識を持たねばならぬ、本島画壇も今や斯る岐路に当面してをり郷土芸術の新たに生れ出づべき機運に際会してゐる、吾人は今秋開催される第五回臺展に期待すると共に、本島画家の反省考慮を望むものである。
─原載《臺灣日日新報》,1931-07-09 (日刊2版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯注(1) 原文「書架」的「書」,應為誤植。