N生記

   (二)

西洋畫的陳列與此次的會場並不搭調,但這也是無可奈何之事。金色的畫框搭配老舊的柱子、斗栱和舗路石,就如同舊瓶裝上了新酒一様,會場欠缺統一,令人感覺不自然。

◇…西洋 畫部的第一室,在正門盡頭的第一個房間。此室的焦點作品,應是審査員鹽月桃甫氏描繪正在吹笛的《馬西多巴翁社(masitoban)的姑娘們》。其次可以看到五十號至一百號的大型作品齊聚一堂。然而,八十號的學院派風格(academic)的靜物畫旁邊懸掛的是書生氣質的表現派作品,再旁邊則掛的是像寫真物(照片)的裸婦畫,如此將風格完全迴異的作品並排展示,讓這個第一室呈現出一種無以名狀的混亂景象。在那裡,各

◇…作品 之間缺乏相互緊密連結的有機力量。鹽月氏的《馬西多巴翁社的姑娘們》流暢地描繪了十一名吹笛女孩,是一幅如處女般清澄無邪之作。其線條如果更纖細(delicacy)的話,會令人聯想到藤田嗣治氏(1886-1968)的壁畫,然而,此畫予人的感覺並非來自線條而是純粹原色的藍與紅,以及從畫面底層隱約滲透出來的光芒。站在此畫之前,

◇…我們 看到鹽月氏成功捕捉到了在最極致的藝術作品中才有的「美的絕對性」,卻也同時發現鹽月立足於知性的貴族主義,並繼續舒適地躲在象牙塔內,因此,這幅畫並不代表向新時代邁出了堅實的一步,臺展也從未出現過這種畫作——這幅畫畫的仍然只是對醜陋過去的美麗憧憬罷了,但這是現今社會所可能允許且必要之存在。鹽月氏另有《靜物》和《風景》各一件的出品,兩件均是佳作。

◇…此外 ,第一部(即西洋畫部)還有陳植棋氏的《看得到觀音山的風景》、陳慧坤氏的《裸婦習作》,兩件作品在素描(dessin)的正確性上,都無人能出其右者,然而,希望陳植棋氏之作能有更詩意的表現,陳慧坤氏之作能更栩栩如生、有氣血流動的表現。第一室裡其他還有松本光治氏的《報紙與水果》和勝田恒夫氏的《靜物》,這兩件雖然都是小品,在描寫新時代的氛圍上卻有其特徴。然而,這種描寫若無法發展成新時代的一個特徴,則毫無意義可言。


臺展を觀る

N生記

   (二)

西洋画の陳列が今回の会場としつくり来ないのは致しかたのない事だ、金色の額縁と古びた柱と組物と舗石とは、恰度古い壺に新しい酒を盛つた様に会場は不自然に統一を欠いてゐる

◇…西洋 の第一室は正門突当りの一番の部屋があてられてある、此の部屋の中心になるものは審査員塩月氏の笛を吹く『マシトバオンの娘ら』であらうそして、之に続いて五十号から百号までの大ものが蒐められてゐる然し乍ら八十号のアカデミツクな静物の傍らには書生風な表現派がそしてその隣には写真物な裸婦が並べられ、かうして多様な陳列がこの第一室を云ひ様なく混乱させてゐる、そこには各

◇…作品 がガツチリと組合つた有機的な力強さがない、塩月氏の『マシトバオンの娘ら』は十一人の笛吹く童女達が流れる様に描かれた処女の様に澄んだあく気のない作である、線のデリカシイがあるならば人々は藤田嗣治氏の壁画を思ひ出すであらう、然しこの絵の感じは線からではなく単純な青と赤とそして画板の底から来る光から来てゐる、此の絵の前に立つて

◇…我々 は塩月氏が最も高き芸術品のみがもつ「美しき絶対」を捕へてゐるのを見ると同時に氏が知的貴族主義に立脚し象牙の塔に心地よき逃避を続けてゐることを発見する、かくて此の絵は新時代への真面目な前進を意味してゐない、さう云ふ絵は臺展には絶無であるがーー矢張醜き過去への美しき憧憬に他ならない、現社会のもが許し得、且必要とする存在である、塩月氏はこの他に『静物』『風景』各一点を出品した共に佳品である

◇…其他 第一部には陳植棋氏の『観音山の見える物景』陳慧坤氏の『裸婦習作』がある共にデツサンの正確さに於て他の群を抜いてゐる然し陳植棋氏の作にはもつと詩を陳慧坤氏の作にはもつと脈々たる血汐の流れを表現して欲しい、その他第一室には『新聞紙と果物』松本光治氏『静物』勝田恒夫氏がある、共に小品ではあるが新時代の空気を描いてゐる所に特徴がある、然し之が新時代のためにまで発展しなければ何の意味も無い

原載《臺灣日日新報》,1930-10-26 (日刊6版)

辨識、翻譯/李淑珠