本島(臺灣)美術之秋的舞台即將以(十月)十五日的搬入開始日揭開序幕,這天也是全島的畫家們在過去一年間竭盡心思創作的作品面對最後審判之日。會場中已設置休憩室和喫茶部,陳列東洋畫、西洋畫的各五間展示室也已經漆上海老茶色(暗紅的茶色)作為底色,在有椰子樹的前庭裡

臺展孃 到處可見,頗有美術之秋的情趣。今年究竟會聚集怎樣的作品?對此,即使不是美術家,也難掩好奇之心。搬入受理開始的上午九點,辦事員才將一切就緒沒多久,西洋畫方面,臺北的蒲田丈夫氏便搬入《無我》,取得了「イ(i)之一」譯注(1)的出品編號;東洋畫方面則是野間口墨華氏搬入了《淡水河》、《鶯歌附近》和《淵與瀬》。以此為開端,在濛濛細雨中,地方畫家的作品被以卡車或手推車搬運過來。之後陸續有穿著俄式襯衫(rubashka)的美術學生或業餘畫家(amateur)的紳士們接踵而來。過不久,

審査員 的石川欽一郎氏與鄉原古統氏進來,一邊看著畫作一邊走著說:

很好!很好!很熱鬧!出品件數應該會比去年的七百件更多吧!

過一會兒,像是剛從畫室(atelier)衝出來、連領帶(necktie)都沒繫的審査員鹽月桃甫氏也過來,說道:

聽說陳列「間」譯注(2)數比去年增加了十八間,太好了!這樣就可以增加入選的數量!我比較想入選小品的好畫,雖然畫面有一年比一年大幅的傾向……今年有設置臺展賞,若能再有一個某某賞,就更好。

像山丘 一樣多的作品被陸續搬運進來,鹽月氏在一旁觀看,神情頗為愉悦。就這樣,儘管辦事員忙得頭暈目眩,到下午一點為止,包括閨秀畫家的搬入在內,總共完成了西洋畫一百五十件和東洋畫十件的搬入受理。


閨秀畫家も見え 作品山を築く 臺展愈々搬入開始

本島美術の秋の舞台は愈々十五日搬入開始の日を以て幕を開ける全島の画家達が過去一年の間丹誠を込めた作品が最後の審判に立つ日である、会場はすでに休憩室、喫茶部も準備され、東洋画、西洋画陳列の各五室も最早海老茶色のバツクをめぐらし椰子の木のある前庭に

臺展嬢 のちらはらと見えるのも何となく美術の秋を思はせる、今年はどんな作品が集るだらうかと云ふ事は美術家ならずとも興味がそゝられる、搬入受付開始午前九時係員が万事手配をして待つ間もなく、西洋画のイの一番には臺北蒲田丈夫氏が『無我』を東洋画では野間口墨華氏が淡水河鶯歌附近『淵と瀬』とを運んで来る、これをきつかけに小雨そぼ降る中を地方画家の作品がトラツクや手押し車で運ばれる、陸続と画学生らしいルバシカ姿やアマチユアらの紳士が押し寄せ、其うちに

審査員 の石川氏と郷原氏が入つて絵を眺めて歩き乍ら

素晴しい、素晴しい、景気だ、出品数は昨年の七百点を遥に越すだらう

と云つてゐる、そのうちにアトリエから飛び出した様な姿でネクタイもしてゐない塩月審査員もやつて来て

陳列間数が去年より十八間増へたつてね、有難い、入選が増へるそれにしても小品でも良いのがとりたい、画面が年々大きくなる傾向があるが……今年は臺展賞が出るさうだがも一つ位××賞といふのが出てもいゝな

山の様 に運ばれて来る作品を見ながら氏頗る悦に入つてゐる、斯くて係員の目のまはる様な忙しさのうちに午後一時までには閨秀画家の搬入もあり西洋画百五十点、東洋画十点の搬入受付をなした

原載《臺灣日日新報》,1930-10-16 (夕刊1版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯注(1) 「1-1」之意。

譯注(2) 日本的長度單位,一間等於六尺,約一・八公尺。