内地(日本)的是結城、和田兩位畫伯 另有陳進和廖繼春兩位作家雀屏中選

臺灣美術展覽會既是本島(臺灣)畫壇的登龍門,也是對一般島民來說作為美術鑑賞的最佳時機(season)而被寄予厚望,今年欣逢第六回的舉辦,如同之前的發表,擬於十月二十五日至十一月三日展期十天,會場在臺北市内教育會館(西洋畫)及第一師範學校(譯注1)(東洋畫),成為點綴島都(臺北)之秋的一大盛事。這回的審査委員長及審査委員為以下的

九氏 ,由平塚(廣義)會長委任:

審査委員長 幣原坦

審査委員

東洋畫 結城素明(内地審查委員)

鄉原(譯注2)藤一郎

木下源重郎

陳進

西洋畫 和田三造(内地審查委員)

小澤秋成

鹽月桃甫

廖繼春

此外,内地審査委員中西洋畫的和田三造氏,去年也被招聘來臺擔任審査委員,身為帝國美術院會員,和田氏在我國(日本)不僅是對畫壇,也是對工藝等其他美術相關領域的發展、振興,持續作出貢獻之人。至於東洋畫的結城素明氏,臺展方面在數年前便曾針對審査委員一職進行過交渉,可惜因故一直未能實現,結城氏明治三十七年(1904)自東京美術學校(今東京藝術大學)日本畫科畢業之後便在該校擔任教授,大正十二年(1923)赴英、法、德各國留學,大正十四年(1925)回國,現任東京美術學校教授之職,與和田三造氏一樣是帝國美術院會員,乃我國東洋畫壇之典範。其次是

本島 審査委員,以前都只有四人,但為了獎勵與優遇本島作家,今年決定從本島作家中挑選東洋畫及西洋畫各一人提拔為審査委員而成為了六人的陣容。本島審査委員中今年新囑託的委員,其中,西洋畫的小澤秋成氏是去年從内地招聘來臺之人,也是二科會的中堅作家,因為今年秋天由内務省内國立公園協會主辦的「國立公園候補地展覽會」將於東京舉辦,小澤氏也將與其他一流作家一起展出作品,並接受該協會的委託,以「太魯閣(Taroko)峽」為主題進行創作,因此有暫時繼續滞留臺灣的打算,這次是作為石川欽一郎氏(1932年3月離台返日)的後任,接受了審査委員之職的囑託。廖繼春氏於大正十一年(1922)自總督府臺北師範學校(今國立臺北教育大學)畢業,又於昭和三年(1928)自東京美術學校畢業(譯注3),現任臺南長老教中學(今長榮中學)及其女學校(今長榮女中)的圖畫教師,臺展目前為止曾榮獲特選、臺展賞及臺日賞等獎項,帝展也有兩次入選的佳績。陳進女士於大正十四年(1925)自臺北第三高女(臺北第三高等女學校,今中山女子高級中學)畢業後就讀東京的女子美術專門學校(譯注4),並於昭和四年(1929)畢業,目前拜在風俗畫大師鏑木清方氏門下習畫,經常往來内臺(日本和臺灣)兩地,臺展方面也有三次特選的榮耀,是新進的閨秀畫家。


島都の秋を飾る 臺展の審查委員發表

内地側は結城、和田兩畫伯 特に陳氏進、廖繼春二作家選ばる

本島画壇の登竜門であり然も一般島民の美術鑑賞上絶好のシーズンとして多大の期待をかけられてゐる臺灣美術展覧会は本年第六回に当り曩に発表せられた如く来る十月二十五日より十一月三日まで十日間臺北市内教育会館(西洋画)及び第一師範学校(東洋画)を会場として島都の秋を飾ることとなつたが今回審査委員長及び審査委員として左の

九氏が 平塚会長から委託された

審査委員長 幣原坦

審査委員

東洋画 結城素明(内地)

卿原藤一郎

木下源重郎

陳氏進

西洋画 和田三造(内地)

小沢秋成

塩月桃甫

廖繼春

因みに内地側審査委員中西洋画の和田三造氏は昨年審査委員として招聘された人で帝国美術院会員として単に我国の画壇に於てのみならず、工芸其他美術全般に亙つて其の発展、振興に貢献しつつある人、東洋画の結城素明氏は数年前に審査委員として交渉されて実現を見なかつたが、同氏は明治三十七年東京美術学校日本画科を卒業後同校教授となり、大正十二年英仏独各国に留学し同十四年帰朝、現在東京美術学校教授の職に在り和田三造氏と同じく帝国美術院会員で我国東洋画壇の鏡である、次に

本島側 審査委員は従来四人であつたが本島作家の奨励優遇上本年はそれら作家中より東洋画及び西洋画に就き各一人宛審査委員に抜擢したので六人となつた本島審査委員中今年新たに嘱託された人々のうち西洋画の小沢秋成氏は昨年内地より招聘された人で二科会の中堅である、今秋東京で開催される内務省内国立公園協会主催国立公園候補地展覧会に一流作家と伍して『タロコ峽』の出品制作を同協会に依嘱されて居る由で引続き当分滞臺の予定で今回は石川欽一郎氏の後任として審査委員に嘱託されたものである、廖繼春氏は大正十一年総督府師範学校卒業後昭和三年東京美術学校を卒業し、現在臺南長老教中学及同女学校の図画を担当して居り臺展では是迄特選臺展賞及臺日賞を付与され、帝展にも既に二回入選してゐる、陳氏進女史は大正十四年臺北第三高女卒業後東京女子美術学校を昭和四年卒業し現在風俗画の大家鏑木清方氏の門下生として常に内臺両地を往復し臺展には既に三回特選されてゐる、新進閨秀画家である

原載《臺灣日日新報》,1932-07-19 (日刊7版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯注(1) 原臺灣總督府國語學校(1896年設立)於1899年改名為臺北師範學校,1927年分割為臺北第一師範學校(今臺北市立大學)及臺北第二師範學校(今國立臺北教育大學)。

譯注(2) 原文「卿原」的「卿」,為誤植。

譯注(3) 廖繼春是1927年畢業,故原文應為誤植或誤記。

譯注(4) 位於日本東京,於1900年創立,校名為「私立女子美術學校」,1919年改稱為「女子美術學校」,1929年再改稱為「女子美術專門學校」,1949年改制為「女子美術大學」至今。