執筆│蕭亦翔(国立清華大学台湾文学研究所博士課程)
日本語訳協力│岡部正二、井上紀子、風戸重利
大磐玲子 入選 府展第5-6回
「どんなときも自分に正直に、勇気を持って、失敗を恐れず、迷わず絵を描こう」と思いました。もしかしたら、人によっては陳腐な言葉に聞こえるかもしれないが、私はこれを信念として描き続けていきたいと思っています。
大磐(糸田)玲子「描くということ」(註1)
2014年に『女流画家協会会報』に掲載された短い記事の中で、大磐玲子は『糸田玲子画集』(2010年)に記した信念を繰り返し述べた。これは、大磐玲子80年の画業を貫いただけでなく、おそらくこれは、彼女の次世代の画家への期待でもあるだろう。思えば、大磐玲子の絵画の出発点は、戦争下の台湾で芽生えた。
「大磐(オオイワ)」は100人にも満たない珍しい苗字(註2)である。大磐玲子の父、大磐誠三氏は滋賀県出身で、早稲田大学政治経済学部卒業後、外交官となった。1920年8月、民政部事務官として中華民国青島の青島駐屯地に配属された(註3)。大磐玲子は、1924年3月1日、青島市で誠三と母花子の長女として生まれた。しかし、生後間もなく母・花子が亡くなり、玲子は継母・淑子に育てられた(註4)。
大磐誠三の赴任に伴って、大磐玲子は幼い頃から父親とともに大日本帝国各地で暮らし、1歳の頃に東京に移り、その後東京市立碑小学校に入学した。1932年、大磐誠三は南洋庁書記官に転勤となり、大磐玲子も南洋から遠く離れたパラオ小学校に転校した。大磐誠三は澎湖庁庁長に昇進した。大磐玲子はまた父に連れられて澎湖島に行き、馬公小学校で学んだ(註5)。澎湖赴任の命令を受けた大磐家は、まず朝日丸に乗船して基隆に到着、その後台北駅の前で、新聞記者が夫人淑子、娘玲子と一緒に写真を撮った記録を残している。
澎湖庁長に就任してわずか2年で、大磐氏は台東庁長に転任し、大磐玲子は台東小学校6年生に編入した。その後、台東小学校を卒業し、花蓮高等女学校に入学、3年間の寄宿舎生活を送る。大磐氏の退官とともに一家は台北に移り、最終的に1940年、大磐玲子は台北第一高等女学校第34期の卒業生となった。(註6)長い間の転居生活もひとまず落ち着くこととなった。
卒業後まもなく、大磐玲子は独立美術協会会員の中間冊夫(1908-1985年)が主宰する絵画講習会に参加して初めてヌード画に触れる。本格的に絵の訓練を受けたのはこれが初めてで、その後父親の勧めで油絵を習い始めた(註7)。ただし、誰の門下にも入らず、独学で絵を学んだ(註8)。
1942年、第5回府展に《ミクロネシアの風景》で初めての官展入選。この作品の画面の左側には南洋風の植物が、右側の川には3人のボートを漕ぐ人たちが描かれている。右下には「玲」の落款が確認できる。戦時下の南進政策を受けてのものと思われる絵だが、幼少時にパラオで学んだ記憶を織り交ぜて描いた風景かもしれない。(註9)
翌年、大磐玲子は〈月下美人〉で第6回府展入選を果たしている。台湾美術官展の歴史上、《月下美人(クジャクサボテン)》と題する作品はいくつか登場しているが、王白淵氏は「大磐玲子の《月下美人》は調和のとれた優しい繪である。技巧も可成り熟達して居り月下美人の特別な一種異樣な美をよく現はしてゐる。相当よい素質を持ってゐるこの女流作家は大いに延びる餘地があると思ふ(註10)」と、独学で学んだ大磐玲子の作品を、王白淵が高く評価し、彼女の無限の可能性を見出した。
しかしこの頃、太平洋戦争は徐々に激化し、大磐玲子も負傷者の救護を担う救助隊に徴兵される。幸か不幸か、看護チームの一員となったものの、連日の空襲により解散となった。(註11)
1944年3月28日、大磐玲子、吉浦鈴子、寺畑敏子らは台北市公会堂で「女流三人展」を開催した。大磐玲子ら3人の女流画家はともに北一高女第34期卒業生だが、クラスは別で、大磐玲子と寺畑敏子は「北組」、吉浦鈴子は「南組」に所属している。(註12)このうち吉浦玲子と寺畑敏子は独立美術協会系出身、独立美術展に入選した飯田實雄に師事し(註13)、大磐玲子だけは独学で絵を学んだ。3人は戦時下の公会堂で、台湾では珍しい女性作家による油絵展を開催した。
油絵展以外にも、台湾新報発行の『旬刊台新』の表紙を大磐玲子が描いている。
三人展の翌年、太平洋戦争が終わった。1946年1月10日、終戦後の混乱の中、大磐玲子に絵の道への道を歩ませた父、大磐誠三が病死した。その後、大磐玲子と母親は日本に送還され、東京や山口などで暮らした。1947年、大磐玲子は画業の継続を志し、東京へ行くことを決意した。東京藝術大学の美術講習会に参加した後、画家の田中田鶴子(1913-2015)と共に、東京・田園調布の猪熊弦一郎氏(1902-1993)が主催する「純粋美術研究室」を訪問することとなった(註14)。
大磐玲子が純粋美術研究室で学んだことを回想するに、毎晩行われていた絵画の授業(デサント会)では、月に一度、猪熊弦一郎が「画談会」を行い、参加者が自らの作品を発表、先生に講評をもらった。懇談会には50人ほどいたが、通常は20~30人だった。中には画家だけでなく、建築家を志す人もいた(註15)。
「戦後間もなく、再び絵を描けることに喜びと希望を胸に、会員たちは将来の理想を語り合った。貧しいながらも皆一生懸命に頑張った(註16)」。大磐玲子は、戦後の荒廃した風景の中で絵に打ち込み、純粋美術研究室に5年間在籍した。絵の道に進んだ大磐玲子が、戦後、主に関わった美術団体は新制作協会と女流画家協会だった。このうち新制作協会は、師である猪熊弦一郎ら6人の画家らによって1936年に設立された美術団体である(註17)。女流画家協会は、戦後発足した女性の洋画団体である(註18)。
また、純粋美術研究室での長期に在籍したことで、川端画学校や大阪市美術研究所で学んだ人々のうち、多くの芸術家夫婦が研究室から誕生した。その中に大磐玲子と糸田芳雄(1926-1997)も含まれる(註19)。
大磐玲子は1961年に糸田芳雄と結婚し、姓を「糸田」玲子に改めた。この頃、糸田玲子と糸田芳雄は絵画における「蝋」の使い方を研究し、この絵画技法をWWCP(Wax.Water.Color.Painting)と名付けて以来、ほとんどの絵がWWCP技法を用いて描かれるようになった(註20)。
1965年、東京・日本橋のときわ画廊で大磐(糸田)玲子を筆頭とする6人の女性画家(残りの5人は神戸文子、戸田文子、三好政子、八木信子、吉江玲子)による展覧会が開催された。このニュースは台湾縁故者を会員して「台湾協会」が発行する『台湾協会報』にも掲載されており、その中で大磐玲子は「台湾縁故者」と明記された。
大磐(糸田)玲子は新制作協会や女流画家協会の中堅会員として活躍した。2010年、大磐(糸田)玲子の作品122点を収録した初にして唯一の画集『糸田玲子画集』を出版したが、ほとんどがWWCPの作品で、自身の詳細な体験記も掲載されている。
90歳の大磐(糸田)玲子は、2014年に地元の千葉県で「1950年代-1990年代 糸田芳雄・糸田玲子回顧展:貧しくて、一生懸命だった、若い頃」を開催した。2人が田園調布の純粋芸術研究室で一緒に絵を学んだ時代を記念したものである。
2020年、大磐(糸田)玲子は96歳で亡くなる。2018年まで、銀座のギャラリー・オカベで、糸田玲子個展「第31回糸田玲子展-94才の軌跡-」が開催された(註21)。台湾時代に手に取った筆は、最後まで手放さなかったとされる。
(本稿の執筆にあたっては、風戸重利氏、東京文化財研究所資料閲覧室、新制作協会にご協力いただきました。感謝いたします。)
#名單之後297
註
1. 糸田玲子、〈描くとゆうこと〉、『女流画家協会誌』、第2号(2014年)、1頁。
2. 名前の由来net〈大磐さんの名字の由来や読み方〉、URL:https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%A4%A7%E7%A3%90(閲覧日:2023-11-29)。
3. 臺灣新民報社編、「大磐誠三」、『台湾人事改訂』、台北:臺灣新民報社、1937-09、29頁。
4. 糸田玲子著、岡部昭二、「糸田玲子 年譜」、『糸田玲子画集』、千葉県:糸田玲子、2010-08、106頁。
5. 同上。
6. 糸田玲子著、岡部正二、「糸田玲子 年譜」。「花蓮港高女合格者」、『台湾日日新報』、1936年4月1日(第5版)。台北州立台北第一高等女学校同窓会みどり会,『会員名簿(平成七年度)』、発行日なし、1995年、166頁。
7. 中間冊夫が台湾で開催した講習会は、1942年8月1日から10日まで北怡高等女学校のデッサン教室で、独立美術協会の中間冊夫と友人の緑川博太郎によって開催された「夏期洋画講習会」だけである。しかし、「糸田玲子 年譜」によれば、大磐玲子は1940年にこのセミナーに参加している。したがって、1942年以前に中間冊夫が台湾に来て講習会を開いた可能性も、または、大磐玲子が台湾以外で開催された講習会に参加した可能性もある。詳しくは、「独立夏期洋画講習会開幕」『台湾日日新報』1942-08-02(第4版)、蔡家丘,「砂上樓閣——1930 年代臺灣獨立美術協會巡迴展與超現實繪畫之研究」、『藝術學研究』19巻1号(2016-12)、23頁を参照されたい。
8. 平川きみ子、「糸田玲子先生を偲ぶ」『女流画家協会会報』、第11号(2021年)、頁数なし。
9. 「ミクロネシア」とは、複数の島を含む「島群」であり、そこには複数の群島が含まれている。パラオはカロリン諸島に位置する。
10. 王白源、「府展雜感—藝術を生むもの」、『台湾文学』、第4巻、第1号(1943-12)、10-18頁。
11. 糸田玲子著、岡部正二、「糸田玲子 年譜」、106頁。
12. 台北州立台北第一高等女学校同窓会みどり会,『会員名簿(平成7年度)』、165-167頁。
13. 吉浦鈴子と寺畑敏子が飯田實雄に師事ということについては、「少女從不老去──畫家吉浦鈴子及其時代」に見ることができる。URL:https://vocus.cc/article/6546f160fd89780001ccc54d(閲覧日:2023-11-30);「無我夢中で寺畑孃の喜び」、『興南新聞』、1941-10-24(第2版)。
14. 糸田玲子著、岡部正二、「糸田玲子 年譜」、106頁。
15. 糸田玲子「田園調布純粋美術研究室」『新制作協会 広報誌』第68号(2014年)、6頁。
16. 同上。
17. 新制作協会「沿革」、URL:https://www.shinseisaku.net/wp/history(閲覧日:2023-11-30)。
18. 女流画家協会、「女流画家協会概要」、URL:https://joryugakakyokai.com/gaiyo/index.html(閲覧日:2023-11-30)。
19. 「糸田芳雄・糸田玲子回顧展:1950年代-1990年代」展覧会パンフレット(奥付なし)。
21.「第31回糸田玲子展 ─94才の軌跡─」、URL:https://www.shinseisaku.net/wp/archives/17983(閲覧日:2023-12-08)。