執筆|王俞丰(オウユウフウ)
久保真治 入選 府展(台湾総督府美術展覧会)第1回、第6回
一つの新聞記事から久保先生を知る
久保真治が1938年に第一回府展西洋画部に入選されたニュースでは、彼の生涯が簡単に紹介されています。久保真治は山口県に生まれ、1937年に台南の南門小学校(現在の建興国中)に赴任し、四年一組(男子クラス)の担任を務めました。上には彼が入選した時の感想も添えられています。
「内地では主として県展に出していました。今年の文展にも法承寺附近の風景を出したが駄目でした。初めて台南に来た時台湾独特のアノ強烈な色彩が常に目にチラつき、この生々しい台湾色を如何にして画面に現すか判らなかった。入選画は暑中休暇から制作を始め二ヶ月余りかかったもので、今後とも大いに勉強し、文展入選迄頑張ります。」(註1)
この新聞から、久保真治は府展に入選される前に、日本の県市や文部省が主催する展覧会(文展)に何度も参加していたことがわかります。彼を感動させた「法承寺周辺の風景」は順調に選ばれませんでしたが、久保真治は台南に来て初めての年に府展で才能を発揮し、人物画『青衣の女』が第一回府展西洋画部に選出されました。彼は最初に台湾に来た時、台湾特有の色調をつかめなかったことを認めており、今回人物画で投稿したのは、まずは府展に参加してみたかったという意味があったのかもしれません。
作品名『青衣の女』から想像すると、白黒の図録に載っているこの女性は青い服を着ていることでしょう。画家の陳德旺も『青いドレス』という作品を描いており、その中の女性は椅子に座り、青い現代洋服を身にまとい、ベルトを締めています。このような服装は当時、女性の流行だったようです。
台南での6年間
総督府の職員録によれば、久保真治は1938年から1944年まで台南の南門尋常高等小学校に勤務していました。この短い6年間の教職生活の後期、つまり1941年頃、太平洋戦争が勃発し、学校の制度もそれに伴い調整を余儀なくされました。
戦争や皇民化運動の影響を受け、授業の他にも、学校では神社参拝、国旗掲揚、勤労奉仕(註2)、行進と国歌斉唱などの課外活動を通じて愛国精神を示しました。その中の一時期、戦火の影響で校舎が烏山頭に移転して授業を行ったこともあり(註3)、台南市内の多くの建物には当時の砲弾の跡が残っています。
戦争時代にあっても、久保真治は美術への愛情を失うことはありませんでした。彼は教育美術振興会に加入し、全日本図画教育大会にも参加しました。また、図画科の指導教員を務める間、積極的に子どもたちの美術を育成し、学生たちに美術の公募に参加するよう促しました。そして、毎月優れた作品を選び出し、『教育美術』雑誌に投稿していました。(註4)
第一回府展の際、久保真治はまだ台湾の色彩を表現する技術を習得していませんでしたが、1943年第六回府展では、自然を描いた作品『竹林』を出展し、見事に入選しました。これは、台湾の風景が彼の心の中で初めて生まれた波紋が何年も続いていたことを示しています。
色彩の明暗の対比から見ると、明るい部分は竹が花を咲かせているようです。竹が花を咲かせることは、その寿命が終わりに近づいていることを意味し、通常は前の年に筍の成長が止まります。久保真治の作品には筍の成長の様子は描かれておらず、これは彼が台湾の自然景観を細やかに観察し表現していることを反映しています。
日本に帰ってから
久保真治が日本に帰った後の足跡を探している際、山口県に一人同じ名前の久保真治という先生がいらっしゃることがわかりました。彼は1913年(大正2年)生まれ、山口師範学校を卒業し、小野田市立高泊小学校で校長先生を担任していました。しかも、日本水彩画展覧会に参加したこともあり、彼の作品は山口県逍雲堂美術館にも展示されたことがあります。(註5)そして、書籍の『小野田市史資料編』の中の扉ページに都市の風景を描かれていました。
逍雲堂美術館に連絡を取ったところ、美術館の学芸員は以前久保真治の生徒だった人に連絡をとり、彼の情報を教えていただきました。この先生は同一人物の可能性があるかもしれません。直接的な史料はまだありませんが、二人の教職背景や美術活動の類似点がこの推測をより信頼できるものにしています。さらに、以下の絵画は1955年に久保真治が描いた『真締川橋』で、彼の出生地である山口県宇部市の真締川を描いています。署名からは、戦前に描かれた『青衣の女』と同様に「KuBo」と署名されていることが見て取れ、これが私たちの推測をさらに強化しているようです。
学芸員が教えてくれた情報の中に、久保真治が帰国後、山口県の厚南小学校で教職に就いていて、彼は身長が高く、バレーボールが得意だったそうです。さらに興味深いのは、筆者は『台湾日日新報』の中で、台南の教職員体育大会に関する記事を見つけました。その中に南門国民学校でもバレーボールの競技があったことが記載されています(註6)。もしかすると、当時久保真治も教職員体育大会に参加してコートでプレーしていたのかもしれませんね。
これらの詳細が次々と浮かび上がるにつれて、久保先生を直接見たことはないものの、彼の姿が筆者の頭の中にぼんやりと浮かんできました……。
#名單之後312
註
- 「久保先生も初入選 暑中休みに製作」,『台湾日日新報』,1938年10月19日(5版)。
- 1934年に台湾青年団訓令が発布され、「勤労奉仕」を通じて地方公共労務に参加し、空堀の掘削、道路の修築、農作業などを行い、軍事的な需要を強化・補給し、日本精神を培うことを目的とした。
- 1944年に米軍の爆撃を受け、戦火を避けるため、学校側は夏休み期間中の授業のない時間を利用して、職員を烏山頭に疎開させ、低学年の生徒は自宅に留まり、保護者が自ら面倒を見た。参考文献:沈琮勝、「日治時期台南市南門小学校課外活動の研究」,『台湾学研究』,第24期(2019年6月)、64頁。
- 日本教育美術振興会は1935年以降、月刊誌『教育美術』を創刊し、日本の美術教育を推進している。内容は教育現場の優れた実践や研究を紹介し、造形と美術教育の理念を広く宣伝し、子供たちの豊かな創造力を育むとともに、指導者がより深く実践できるよう支援している。
- 久保真治の作品については、逍雲堂美術館の公式ウェブサイトを参照してください:https://sho-undo.simdif.com/。
- 久保真治が教職に就いていた台南尋常高等小学校は、1941年に六年国民教育の開始に伴い「南門国民学校」と改称された。参照:「台南州学校 職員体育会」,『台湾日日新報』,1941年11月2日(4版)。
参考資料
- 久保真治の戦後生平資料について、資料は『防長年鑑 昭和45年版』,防長新聞社、1960、388頁を参照。
- 沈琮勝、「日治時期台南市南門小学校課外活動の研究」,『台湾学研究』,第24期(2019年6月)、53-86頁。
- 久保真治が日本水彩画展に入選した件について、資料は『防長年鑑 : 山口県大観 1960年版』,防長新聞社、1960を参照。