欽一廬(譯註1)
西洋畫部之出品畫大致可區分為運用技巧來把握自然之作品及以構思來詮釋自然之作品兩種,因此畫風缺乏變化。此外,不少作品可惜因構思未臻周全讓卓越的技巧也只能歸於平凡,或因技巧的未臻成熟讓難得的好構思也表現不出來。令人有一種因為武器裝備不足而無法盡情戰鬥之感。雖然沒有第一回展時的乏力感,但取而代之的是欠缺元氣。可以看到安定與進步,但那是一種相當危險的演出,因為在其背後支撐的完全是構思之不周全或技巧之不成熟,意識到這點,對於直接或間接肩負臺灣藝術的未來的年輕作家來說,尤其重要。馬諦斯(Henri Matisse)在技巧的磨練上,花費了十四個年頭去徹底研究素描(dessin)。無論對大自然有如何深刻的領悟,若技巧無法將之表現出來的話,畫也無法成為一幅畫。唯有成熟的技巧受到周全的構思引導之時,藝術之花才得以盛開。所以除了在研究上更加努力之外,別無他法。
臺展小言(三)
欽一廬
西洋画の部は、大体として技巧によつて自然を掴まうとするものと、想によつて自然を解釈しやうとするものとの二様に分かれる。従つて画風の変化に乏しい。然かも想の至らぬためにあたら技巧も平凡に帰し、技巧の至らぬために折角の想もまとまらぬものが尠く無い。武器が不充分で思ふやうに戦へぬ観がある。第一回のやうに空力味は無い代はりに元気には乏しい。安定と進歩とは見えるが、それが可なりあぶない芸当であるその因が皆想の不備か技巧の不熟かに基いて居ることを思へば、直接間接に臺灣芸術の将来に責任を負ふ若き作家は、殊に此点の注意が大切である。マチスは技巧の練磨に十四箇年デツサンを究はめた自然を何程目詰めても手がこれを受けなければ画は出来ない。技巧を円満なる想に依つて導く時甫めて芸術の花は開らける。やはり研究に一層努めるより外は無い
—原載《臺灣日日新報》,1928-11-02(夕刊3版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯註1. 「欽一廬」為石川欽一郎常用別名,「一廬」為其別號。