克雲
十一月八日的臺灣日日新報上,針對陳進女士的作品〈野分〉報導了模寫(模倣、抄襲)問題,亦即,入選第七回帝展(帝國美術展覽會)日本畫部門的門井掬水氏之作,題為〈黑蝴蝶〉之畫與此畫在擺姿(pose)上很相似。掲發者如是說:「懷疑取用門井氏的構圖,僅將人物畫成現代女性」。筆者第一次看到這幅畫時,因為從畫面上可以窺見此畫作者的特質而感到很愉快。只是這樣就覺得此畫很有意思,沒想到卻發生了前述的模寫問題。
賦予筆墨生命的東洋畫,本來就可以將前人之作臨摹的一模一樣,因為與其在構圖上表現出創意,在筆墨上有所精進才更為重要。就報上刊載的這兩幅畫的圖片來看,背景的確相似,不管以多麼維護陳女士的角度來看,可能都沒辦法說這是偶然的巧合。然而,只針對構圖來做文章,也令人感到非常不可思議。別忘了,不管色彩或是筆觸,都是繪畫的重要要素。
因此,陳進女士的畫若是抄襲程度的模倣,也就算了,若非如此,就不值得像臺日報這般大聲加以撻伐。尤其是其他的諸要素的相似與否,絲毫沒有被列入考慮範圍內,表示此畫沒有問題。事實上,很難相信從這幅畫所感受到的感動,與從帝展的畫家門井掬水的畫所感受到的感動,會是相同的。只要作者有表現出自己本身的境地,就沒有那般苛責的必要。若要苛責,看看帝展,這是每年都會發生的問題,而且還不少,例如最近有此嫌疑的中野和高氏的〈風景中的我的家庭(譯註1)〉(1928年第9回帝展)據說完全抄自「以前」佛蘭西(法國)畫家的畫,或某幅畫其實是複製了去年鈴木千久馬氏的〈四個女人〉(1927年第8回帝展.特選)等等,不勝枚舉。
簡言之,整幅畫的抄襲才是需要排斥的對象,只是構圖的模倣,就沒必要這樣雞蛋裡挑骨頭。何況審查員也都給予肯定,將之選為「特選」了,這樣是何等的難堪啊!揭發者真的是愚蠢至極,而臺日報的如此「醜態」也實在令人很傻眼,這就是我最後附加的感想,就此擱筆。
臺展の一問題に寄す
克雲
去る八日の臺日新聞紙上に、陳氏進女士の「野分」に就いて模写問題が起つて居る。それは帝展第七回の日本画入選門井掬水氏の作「黒胡蝶」の絵と此の絵とポーズが似て居ると云ふのだ。摘発者に従へば「構図を取り入れて、人物丈を現代の女にして描き上げたものではないかと」といふのである。筆者は始めて此の絵を見た時、此の作者の特質を窺ひ得て愉快に思つた。唯それ丈興味あることに思つた。所へ右の模写問題が起つて来た。
元来墨や筆に生命を托する東洋画では先人の作をソツクリ模しても差支がない。構図に創意が出すよりも筆墨に精進することが重要なのである。新聞に並べた二つの絵を見ると背景は似て居て、いくら贔負眼に見ても偶然の暗合だと云ひ切る事が出来ないかも知れない。然し構図許りを問題にするのが不思議でならない。色彩も筆触も凡て絵画に重要な要素であることを忘れてはならぬ。
故に陳氏進女士の絵が模写に等しき模倣ならば兎に角、然らざる限り臺日紙の如き大声叱呼する程の事ではあるまい。殊に他の諸要素の相似せると否とを少しも考慮に入れないのは問題とするに足らぬ。事実此の絵から受ける感銘と帝展の門井掬水画家の絵のそれが同じものだとは信じられない。作者に己に作者自分の境地が出てゐる以上、之をそれ程に責立てる必要はない。之を責める位ならば既に帝展の年々数ある問題なので、卑近の一例を挙げると、這般問題に上つた中野和高氏の「風景を配する我家庭」がサル仏蘭西画家の絵と寸分遠はぬ模写だとか又或るものが昨年の鈴木千久馬氏の「四人の女を踏襲したものだとかの如きもので毫も珍しいことではない。
要するに絵こそ排斥すべきで構図のみでヤカマシク云ふ必要はないのである。況や審査員も之を認めて特選となつたとは何たる醜態ぞ!摘発者の愚や正に買つて余りあり、臺日紙の如きザマや全く呆きれ返つて仕舞ふことを付言して筆を擱きたい。
—原載《臺灣民報》,1928-11-25(11版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯註1. 該作品的正確名稱為「風景を配せる我家庭」,故原文的「配する」為誤植。