欽一廬
臺展的十天展期,以預期以上的盛況閉幕,實在可喜可賀。然而,在另一方面也似乎存在一些批評的聲浪,而這些批評主要是針對鑑查的問題,但此次落選的畫作,簡單來說是因為有一些不足之處,有幾位落選的作家也曾向我坦白說他們到會場看到陳列的畫作,才了解到原來自己的畫未能入選也是理所應當,下次一定會更加努力看看,也就是說因為落選反而能汲取教訓的人似乎也不少。針對鑑查的責難,在任何國家的任何畫會都難免發生,其中最為困難的應該是主義這點。例如若是在東京,帝展審查合格的畫作也有可能進不了二科會,即使在巴黎,受到獨立藝術家協會(Société des Artistes Indépendants)歡迎的畫作,卻吃其他美展(salon)閉門羹的事,也是常有。臺展展現的是廣大的包容力,不論是寫實風格的畫,還是客觀性的印象主義的畫或主觀性的表現主義的畫,只要作品優秀便一視同仁地予以入選,因為官展與其他擁護單一畫派的畫會的性質不同,不支持所謂的主義。即使畫風老舊,作品優秀便可,畫風即使新穎,作品拙劣的話也仍不可取,總之,作家必須以熱誠來描繪自己的畫,這是第一要件。客觀印象派之弊,是容易墮入粗率獨斷,寫實描寫之弊,是容易變成只是機械性的製作,這些短處若能時時自我警惕,更深入研究的話,在明年秋天的臺展,就一定能有更出色的表現。說實話,這回的作品,呈現作家獨自畫風的極少,很多都是類似風格的畫。原因之一,可能是餘技(業餘嗜好)的畫作太多,但就其根本,也是尚未達到獨自的境地使然,這點也仍需作家未來多加切磋琢磨。希望隨著臺展每年的舉辦,畫自己的畫的作家,能越來越多。
臺展後記
欽一廬
臺展の十日間も予期以上の盛況を以て終はつたことはまことに慶賀の至りである尤も一方に於ては兎に角の非難の声もあつたやうであるがその依つて来る所は主に鑑査問題に就てゞあつたかと思はれるが今回選に漏れた画は要するに何処かに不充分の点があつたものでそれらの作家の数名が私に告白したところに依るも会場に陳列された画に就て見れば成程自分の画が這入らなかつたのも当然と解かつたから次回には一つ努力してやつて見やうと落選によつて反つて良い教訓を得た人も尠なく無かつたやうである鑑査に対する批難は何国如何なる画会にも免れぬことであるがそのうちで一ばん難かしいのは主義の点であらうと思ふ例へば東京ならば帝展に通はるやうな画で二科会には這入らぬ場合があり巴里でもアンデパンダンに歓迎される画が他のサロンでは門前払ひとなることは少しも不思議で無いが臺展では包容力を大きくして写実風の画も客観的印象の画も主観的表現の画も佳くさへあれば差別なく採つたことこれは官展なるものは或は一派の会とは異つて別段主義を支持する性質のものでは無いからである古るい画風でも佳ければ可く新らしい画風でも悪るければ悪るい要するに作家は熱誠を以て自己の画を描くことが第一である客観印象の弊は図撰独断に堕し易く写実描写の弊は単に機械的の仕事に了はり易いものであるからこれらの短処を自ら警戒して愈々研究を進めたならば来秋の臺展は一段の輝きを添へるであらう実を言べば今回の作品には作家の特技を示したものが尠く同じやうな描き方の画が多かつたことである一には余技になつた画が可なり多かつたのにも原因するであらうが根本に於てはまだ独自の境地を啓くまでに至らぬものもあつたからで此点も将来作家の切磋琢磨に俟つべきものが多い臺展が回を重ねる毎に自分の画を描く作家の益々多くなることを希望する次第である
—原載《臺灣日日新報》,1927-11-09(夕刊3版)
(辨識、翻譯/李淑珠)