臺灣也吹起了柔和而新鮮的美術之風,就像二十年前在東京吹起的一樣——「那」是因為,不用多說,公設的臺灣美術展覽會問世的關係。在東京, 

文部省 舉辦美術展覽會之初,世人將之稱為「文展」(文部省美術展覽會),百般簇擁,現在一想到那時候的事,便不禁想捧腹大笑。「文展」之熱,燒得最旺盛的時候,大概是其第三回或第四回左右,當時,若沒去上野看每年秋天文部省舉辦的美術展覽會,不論是政治家還是實業家,例如赴宴或其他聚會上都無法暢所欲言,或在家裡會被小孩揶揄:「蛤?爸還不知道文展?沒法聊啊!」,或外出時會聽到年輕男女之間文展相關美術談的話題不斷,若沒去看過,總覺得

面子上 好像掛不住,無奈之下只好去看。像這樣,實際上那個時候不管是阿猫還是阿狗,就像是雪崩似地擠往上野觀賞文展。文展以不尋常的氣勢教育了那些對近代美術漠不關心的東京人士,突然開啟了他們對繪畫或彫刻的審美之眼。等到文展陸續舉辦到第五回或第六回時,情況進步到連位於下町(譯註1)位於低地的城鎮,稱為「下町」。東京的下町代表有日本橋、京橋、神田、下谷、淺草、本所、深川等區。的商家的丁稚(學徒),都能講出一番美術批評,而東京都下的報紙所刊登的美術批評,則被其他意想不到的領域的人們,以無比的熱情仔細閱讀。如此,文展廣受歡迎,光是

文展的 入場費,便收穫龐大的金額,國庫大為歡喜,然而,與此同時,美術家開始了藝術上的墜落,亦即為了迎合人氣而繪製俗氣不堪的畫,稱之為作品,為此引發了文展改革的輿論,導致文展結束於第十二回,變成現在在帝國美術院主辦下的所謂「帝展」(帝國美術院展覽會),今年已展出第八回,並在東京的展覽結束之後,作品也運至京都舉辦巡迴展,但不論是在何處舉辦的展覽,都備受歡迎。臺灣美術展覽會也雖然是第一回,便已收到了意外的佳績,這點證明了臺灣的美術界也是不容小覷的。可想而知,這個臺展勢必會從咖啡廳(café)等文藝圈的

美術談 向外擴散,在社會各方面掀起不小的波紋。(鷗亭生)


一時に花が咲いた形…… 美の殿堂の扉開く 軈て臺展評が日常の話題となり 話せぬ者は肩身が迫い時代が来やう

臺灣にも美術の方面から柔かい而して新しい風が吹き出した、恰度今から二十年前東京に吹き出したのと同じやうに——ソレは言ふ迄もなく公設の臺灣美術展覧会ができたからだ、東京で

文部省 が美術展覧会を初めて開いて世に『文展』と言はれて持て囃された頃の事を今から思ふと全く噴き出したくなる位だった『文展』の熱が一番上つたのは何でも第三四回ごろで、此の頃になると上野で毎秋開く文部省の美術展覧会を見ないと、政治家も実業家も宴会などへ出て口が利けないと言つた具合、家庭では子供等から『何んだお父さん未だ文展を知らないのか、話せないなア』抔揶揄はれ、外では外で若い男や女だちの間から絶えず文展の美術談が持ち出されるといふ訳で見てゐないと何となく

肩身が 狭くなる、仕方なしに見に行くといふ有様で実際あの頃は猫も杓子も上野の文展へ文展へと雪崩をうつたものだ之が近代美術などに全く無関心だつた東京人士を非常な勢ひで教育し、急に絵画や彫刻などに対する審美眼を開かせて来たのである、それで文展が五六回も続いで来た頃には、下町の商家の丁稚などまで一廉の美術批評をやるといふ位まで進んで来て、都下の新聞に出る美術批評は可なりの熱心さで案外の方面の人々から貪り読まれたものである、かく文展に人気がすつかり集つて了つたので

文展の 入場料だけでも莫大な額になり国庫は大喜びだつたが、同時に美術家が芸術的に墜落して来た、詰り人気に投じ俗気たつぶりの絵を画き作品を造るといふ風になつたので茲に文展革新の輿論が生れ、文展は十二回で滅びて今日では帝国美術院の主催になる所謂『帝展』となつて今年で第八回になつてゐる、東京で終ると京都へも持つて行つて展覧会を開いてゐるが何せよ相変らず人気を呼んでゐる、臺灣美術展覧会も第一回としては意想外に佳く出来てゐて其の点は臺灣の美術界も馬鹿にならぬ事が証明し得たが、この臺展がカツフエなどでの美術談 から進んで社会各方面に相当の波紋を描いて行くであらうことは予想して間違いない所と思ふ(鴎亭生)

—原載《臺灣日日新報》,1927-10-28(日刊4版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 位於低地的城鎮,稱為「下町」。東京的下町代表有日本橋、京橋、神田、下谷、淺草、本所、深川等區。