臺展公開第一天的二十八日,正是臺灣神社的例祭日,但神社今年並未舉辦像往年一樣的慶典活動(譯註1)。而臺展方面,上午大約有五千人的入場者,下午的人數也不比上午少,可能因為這是本島(臺灣)首次的

美術之秋 ,可以盡情鑑賞作品,直到下午四點半,大約有五千人的觀眾,所以光是二十八日一天,便有大約一萬人入場,盛況在預期以上,導致入場券有好幾次因為售罄,必須改去文教局取票,讓辦事員應接不暇,狼狽不堪,甚至連目錄和繪葉書(美術明信片)都賣到只剩下半天的庫存,會期十天份的存量,幾乎一天就銷售一空,讓辦事員面露狼狽地說:「要再多準備不可」,而在脫鞋處,可以看到若槻道隆督學官也脫去上衣,汗流浹背地幫忙,整個情況呈現一個令人想像不到的大盛會。此外,觀眾之中有些是招待日的來賓,似乎是招待日那天沒看過癮,所以又再來看。二十八日為止,已簽賣約的作品,除了中辻(喜次郎)氏購買石川欽一郎氏的〈厦門〉,津久井(誠一郎)氏購買古川義光氏的力作〈Natures Morte(靜物)〉之外,總共有八幅。至於七星郡役所(現為立法院青島第二會館)樓上的

參考館 也有非常多的入場者,但似乎是地點不太好找的緣故,與樺山小學校的會場相比,人數比較少。此外,在參考館曾被命令撤回的牧野虎雄氏的〈裸婦〉,後來獲得臺北州警務當局的諒解,二十九日起得以陳列。

脫鞋處 今日起免收費

二十八日那天,因為脫鞋處的問題,讓來場者產生一些反感,臺灣教育會對此聲明如左:

非常多的來場者因為脫鞋處的問題,產生了一些反感,在此致上萬分歉意!當天脫鞋處是外包給廠商負責,與多數的來場者發生了一些誤解,以致於教育會的工作人員也出面幫忙處理。二十九日起,將由教育會這邊直接負責脫鞋處,而且不收取費用。對於二十八日的來場者,本會深感抱歉,因外包的關係而讓各位敗興,二十九日起予以改進等等。

盡量穿草履 或鞋

二十八日開始公開展出的臺展,入場者多如過江之鯽,而會場因狹隘之故,混雜不堪,所以請觀覽者盡量穿著草履(日式夾腳鞋)或鞋,也不要帶雨傘或手杖(stick),會比較方便。順便提醒,開館時間是上午八點至下午四點半。


臺展第一日の 入場者一萬 係員てんてこまひ

臺展公開第一日の二十八日は臺灣神社の大祭で例年のやうな催物のない所から午前中は約五千人の入場者があつたが午後は午前に劣らず本島初めての

美術の秋 とでもいふべき日を心行くばかりに鑑賞すると見えて午後四時半までに約五千人の観衆があり二十八日一日で約一万人といふ予想以上の賑はしさを呈したので数回入場券が売れ切れて文教局まで取りに行く程係員の狼狽を見た上に殆んど目録も絵葉書もあと半日分位を残す程売り切り会期十日分のものを殆んど一日でさばいてしまつたといふのでまた準備しなくてはならないと係員が狼狽するやら下足で若槻督学官が上着を脱いで汗みどろになつて手伝ふやうで想像上得なかつた大盛会を見る又観衆の中には招待日に見えてゐた人々が未だ観足りないと見えて来会してゐた者もあつた二十八日までに売約済となつたのは中辻氏が石川欽一郎氏の『厦門』を津久井氏が古川義光氏の力作『ナチユールモルト』を買つた外全部で八点である、七星郡役所楼上の

参考館は 非常に多くの入場者があつたが場所がわからなかつたのか樺山小学校の会場に比較すると幾分少なかつた様である又参考館で撤回を命ぜられてゐた牧野虎雄氏の『裸婦』は臺北州警務当局の諒解を得て二十九日から陳列することになつた

下足は けふから無料

二十八日下足のことについて来会者に多少嫌な感じを与へたので之に就て臺灣教育会では左の如く語つて

非常に多数な来会者で下足のことについて多少悪い感を抱かせたのは誠に済まない当日は下足は請負にしてゐたので多数の来会者に対して行違ひが出来教育会の者も手伝つた程であるが二十九日から教育会の方で下足をあづかることに料金も取らないことにしました二十八日の来会者には気の毒でなりませんが請負にしたゝめ悪い感情を与へてはならないので二十九日から改めました云々

なるべく草履 か靴で

二十八日から蓋開けされた臺展は入場者夥しく会場狭隘の為め甚しく混雑してゐるので観覧者は成るべく草履又は靴にて傘ステツキは持参せぬ方便利である因に開館時間は午前八時から午後四時半までゝある

—原載《臺灣日日新報》,1927-10-29(日刊3版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 因大正天皇於1926年12月薨逝,故祭典從簡。