臺灣美術展覽會的第一回展,在教育會的主辦下,今秋於臺北隆重登場,該展覽會會長後藤(文夫)總務長官,六日下午自三點開始,在官邸舉辦茶話會,招待該展覽會的評議員,與會者除了本山(文平)警務局長、宇賀(四郎)專賣局長、石黑(英彥)文教局長等各局局長之外,還有

  高木(友枝)、妻木(栗造)、久宗(薰)、古賀(三千人)、三好(德三郎)、高須(時太郎)、河村(徹)、小松(吉久)、辜顯榮、許梓桑、顏國年

等諸氏,約二十餘名。入席坐定後,後藤長官起身致詞,內容如後記,然後由石黑文教局長詳細說明該展覽會内容、組織及其他事項,對此,高木友枝氏代表陳述謝辭,此時茶點上桌,結束後,移動至別室,暢談美術,五點左右散會。

後藤會長的致詞

由臺灣教育會主辦的每年一次的美術展覽會,今秋是第一回展,於臺北隆重登場。臺灣教育會之所以舉辦美術展覽會,是因為我們臺灣的文化,尤其是精神文化,正有渴望提升的急迫性,此次美術展覽會的舉辦,便是應此要求。內地(日本)方面,帝國美術院(譯註1)等所謂的美術團體,達幾百個以上,就連朝鮮,也從數年前開始,以國家經費舉辦美術展覽會(譯註2),因此,在我們臺灣,一是為了製造作家切磋的機會,一是為了讓社會進一步培養藝術趣味、涵養精神,開辦美術展覽會是最有意義之舉,相信在座的各位皆有同感。尤其是近來,本島(臺灣)在住者之間,對藝術的愛好頗高,本島青年,有些人自東京美術學校(現東京藝術大學)畢業,有些人在學中,也有些人的繪畫及雕刻作品入選帝展(帝國美術院展覽會)(譯註3),其他有志於美術方面的人,也越來越多。這些現象顯示了本島在精神層面上,比以前更傾向往藝術方面伸展的機運。本展覽會當然希望對藝術全體的進步與發展能有所裨益,但尤其又以本島獨特的藝術的發展為目標,展覽作品主要是本島在住作家之作,期望藉由這些作品,成為發揮臺灣藝術特色的機關。當然,本展覽會很難從一開始就能獲得重大成果,在此期盼靠各位的熱心援助及出品作家的奮發努力,能逐漸有健全的發展,對本島的美術界及精神界作出重大的貢獻。


臺灣美術展の 献立茶話會 後藤長官は会長として 一場の挨拶を述ぶ

臺灣美術展覧会の第一回が教育会主催で今秋臺北に於て催されるにつき同会会長後藤総務長官は六日午後三時より官邸に茶話会を開き同会評議員を招待したが集るもの本山警務、宇賀専売、石黒文教の各局長其他

 高木、妻木、久宗、古賀、三好、高須、河村、小松、辜顕栄、許梓桑、顔国年

の諸氏約二十余名で席定まるや後藤長官は立つて別項の如き挨拶を為し次いで石黒文教局長より同展覧会の内容組織その他につき詳細に説明する所あり之に対し高木友枝氏より謝辞を述べ茶菓の饗応あり終つて別席にて美術を中心に打寛いだる会談あり五時近く散会した

後藤会長挨拶

臺灣教育会主催の下に毎年一回美術展覧会を開くことゝし今秋を以て其第一回展覧会を臺北に開催することに致しました、臺灣教育会が美術展覧会を開催せんとするに至りました趣旨は、我が臺灣の文化特に精神文化の向上についてはその欲求洵に急なるものがあると今回の美術展覧会の開催は此の要求に応ぜんとするものであります。内地に置きましては帝国美術院を始め美術団体と称せらるゝものゝ数百を超え朝鮮に於ても数年前より国費を以て美術展覧会を開いて居ります、我が臺灣に於ても一は作家切磋の機会を作り一は一段社会に芸術趣味を培ひ精神を涵養せしむる為め美術展覧会開催が最も有意義なることは各位も御同感のことゝ信ずる次第で御座います、殊に近来本島在住者間には美術愛好の熱が大に高まつて参りまして東京美術学校を卒業したるものもあり、又在学中の者もあり又絵画彫刻に於て帝展に入選した者もあり其他美術に志する者も中々多くなつて参りました、これ明に本島の精神界が大に芸術方面に動いて来た機運を示すものと考へらるるのであります、本展覧会は勿論芸術一般の進歩発達に資せんことを望んで居りますが特に本島独特の芸術の発達と云ふことを目指し展覧作品は主として本島在住作家のものを以てし臺灣芸術の特色を発揮せしむるの機関たらんことを期するので御座ります、勿論本展覧会に於ても初めより大なる成果を収むることは困難でありませうが各位の熱心なる御援助と出品作家の奮発努力とに由て漸次健全なる発達をして本島の美術界並に精神界に大なる貢献をなさんことを切望する次第であります

—原載《臺灣日日新報》,1927-07-08(夕刊1版)

辨識、翻譯/李淑珠

註釋

譯註1. 1919年成立,其展覽會稱為帝國美術院展覽會(帝展)。

譯註2. 朝鮮美術展覽會,簡稱鮮展,由朝鮮總督府主辦,1922年第一回展。

譯註3. 黃土水的雕刻〈蕃童〉(山童吹笛)及陳澄波的油畫〈嘉義の町はづれ〉(嘉義町外),分別入選1920年第二回和1926年第七回帝展的雕刻部及西洋畫部。