總督長官等人之意見亦受到採納,臺灣總督府內的教育會同意挪出經費,從今年起,設立每年點綴臺灣秋天的美術展覽會,至此決定的過程中,也有各種有趣的變遷或

 插曲。當初是臺北的美術愛好家聚集商議向總督府申請些許補助,以便創辦類似內地(日本)的帝展或朝鮮鮮展的展覽會。提案一出,向來理解美術的當時的內務局長木下信,要求說:「此案交給我吧」,爾後便稱之為木下案,經過數次研議,雖杯水車薪,但預算也總算有著落,故準備今夏揚起旗幟舉辦第一回展覽會於臺北市的師範學校或附屬小學校。此時,新文教局長石黑英彥來臺

 就任,因此份工作與文教局有關,故由石黑氏之手重擬「菜單」,會期也因夏天準備不及,改為今年秋天,從臺灣神社祭的十月底至明治節的十一月三日左右,選在臺北人潮最熱鬧的好時節,十天展期在樺山小學校舉辦,這可謂是石黑新局長的第一份工作。此外,明年秋天之前,在臺北州廳(現監察院)附近,作為教育會館(現二二八國家紀念館)的大型

 建築物竣工,「灣展」以後將在此處大舉培育臺灣一流的日本畫、東洋畫等,令人深感期待。至於朝鮮的美術展,根據石黑局長所言,鮮展開辦當時,優秀的作品也不怎麼多,但如今進步顯著,與一般民眾的美術鑑賞眼同樣呈現非常大的進步。


臺灣美術展覽會 は言はゞ石黑局長の 就任後最初の仕事だ

総督長官などの意向をも聴き臺灣総督府内の教育会が金子を出して本年から毎年臺灣の秋を飾る美術展覧会が設けられる事になつたが此の決定を見る迄には種々面白い成行きや

 挿話もある初め臺北の美術愛好家が集つて督府から幾分の補助を得内地の帝展や朝鮮の鮮展などに似た展覧会を設けやうと協議し案が出来たところ此の方面に理解ある当時の木下内務局長が、「其の案を僕のものにして呉れ給へ」との註文を出し爾来木下案として議を練られ少いながら予算も見込みがつき今夏第一回旗揚げ展覧会を臺北市の師範学校か又は付属小学校で開く手筈になつてゐた其の中に石黒新文教局長が

 着任したので此の仕事が文教局に関係をもつ為め同氏の手で改めて献立する事になり会期も夏では間に合はぬので矢張本年の秋とし臺灣神社祭の十月末から明治節の十一月三日頃へかけ臺北へ最も沢山人の集る好時節を選んで十日間樺山小学校で開く事になつた次第で之は言はゞ石黒新局長最初の仕事と言つてよい、尚ほ明年の秋までには臺北州庁附近へ教育会館といふ大きな

 建物が出来て此処で「湾展」として大いに臺灣一流の日本画、東洋画等が育つて行くであらうと深く期待されてゐる朝鮮の美術展について石黒局長の語る所によつても鮮展を始めた当時は立派なものも多くは出なかつたが今日は非常な進歩で一般の美術鑑賞眼と共に多大な進歩を見せてゐるとの話だ

—原載《臺灣日日新報》,1927-04-15(日刊2版)

辨識、翻譯/李淑珠