京大(譯註1)助教授(譯註2) 澤村專太郎
觀賞臺展的出品畫,在這些東洋畫、洋畫(西洋畫)中所感受到的是:「作品都很朝氣蓬勃、勇於表現」。這是藝術在發育期的階段常見的現象,因為此時期的藝術充滿了排除萬難、向上發展的氣魄,但就技巧方面來說,訓練仍然十分不足,很容易就被看出了破綻。首先,我們知道的是技巧上近乎無知的作品,其作者大多都是經過了制式的練習。其次很明顯的是藝術感興(靈感)並不強烈,亦即,不是有重複以往的創作構思,就是有雖意在寫生卻未能窮究其本質等之類的缺點,實在令人遺憾。
西洋畫方面
洋畫(西洋畫)方面,首先是人體的研究不足,也欠缺此類型的作品。洋畫為追求形體與色彩的正確,必須練習大量的人體寫生,但卻不見「此方面」的訓練,這在將來應該要大肆提倡。又,對於大自然的研究也不夠徹底。因為對大自然的觀察不足,導致色彩無法分辨,調不出合適的色調,這些都純粹是研究不足所造成的結果,別無其他。其次是以色調及筆法描繪出作家的精神生活或其本身的心情的藝術感興的問題,這點當然也是避免不了不夠正確或不夠友善,尤其非常欠缺的是以色調來表現自己輕盈愉快的心情,而這個缺陷在日本的西洋畫上也通常可以看到。總之,作家需要更深刻地去凝視自我,同時,希望能多加強人體研究及其他(美術)設施,不要一昧地追逐流行的畫風,應深入探索屬於精神層次的藝術性感受。
東洋畫方面
此畫部的作品也是構思枯竭,缺乏精神層次的要素,不具反抗力,尤其欠缺熟練度,色彩也庸俗不堪,因為沒有真心實意地進行過色彩的研究,所以才招致反感。願能多加強墨繪(水墨畫)的研究、人物及風俗的研究,更要培養對大自然的獨自觀點、進行古畫的研究等等。墨繪的新研究,在最近的年輕作家之間被認真看待,將來一定會有所發展。簡言之,將自己純真的心情毫無保留地全部釋放,舞動出作家本身的精神生活的裸舞──只要能以如此心態進行創作,相信必然會有生動精彩的作品誕生。
臺展を見ての所感 伸びんとする力はあるが 訓練が不充分で 技巧上の破綻が多い
京大助教授 沢村専太郎
臺展の出品画を見て東洋画洋画を通じての感じは『大いに気力がある、勇敢な作品だ』といふ点だ、之は芸術が発育期にある時代には現はれ易い現象で他を押し除けて伸びるといふ気力が溢れてゐるからだ、然し技巧の方からいふと未だ未だ訓練が不充分で技巧上の破綻といつたものが往々見出されるそして技巧上無知に近い作品の作者は先づ秩序ある練習を経てゐる者が多いといふ事をも知つた、次に目について事は芸術的の感興が強く動いてゐないといふ事だ、即ち在来の意匠を繰り返すか写生を狙つても未だその本質を極め得ぬといふ点があり遺憾である
西洋画に就て
洋画の方では先づ人体の研究が不充分でその種の作品も乏しい、洋画は形体や色彩の正確を期するため人体の写生を大いにやるべきものだがソレが無い、之は将来大にやるべきものと思ふ、又た自然の研究も不徹底である、自然を見る事の不充分な所から色の識別がつかず充分妥当な色調を出し得ぬ、是等は純粋な研究の足らぬ結果といふ外ない、次には色調や筆づかひに依て作家の精神生活や自分自身の気持を画き出す芸術的感興の問題だが、之も勿論尚ほ不正確不親切を免かれない、殊に軽やかな自分の晴れ晴れしい心持を色調に依て描き出すといふ様な事に欠けてゐる、この欠陥は日本の西洋画一般に着しく認めらるゝ所のものである、兎に角自分といふものをもつと鋭く凝視する必要がある、と同時に人体研究その他の設備にも考を廻らして欲しい、徒らに流行の作風を追ふ抔は採らぬ所で芸術的感興即ち精神方面に突入して欲しい
東洋画に就て
此の方も意匠が枯渇してゐて精神的要素に乏しく反撥力がない、殊に熟練さが欠け色が下品である、色の研究に本当に打ち込んでゐないから反感を与へる、希望としては墨絵の研究、人物及び風俗の研究、更らに自然に対する見方、古画の研究等が望ましい、墨絵の新研究はこの頃の若い作家抔の間に真面目に考へられてゐるもので将来があると思ふ、要するに純真な自分の気持を其儘放出し、その作家の精神生活の裸踊りを踊る--といふ考で進んだなら必ず生々した作品が生れ出るものと信ずる
—原載《臺灣日日新報》,1928-10-28(夕刊1版)
(辨識、翻譯/李淑珠)
註釋
譯註1. 京都帝國大學(現京都大學)。
譯註2. 日本2007年已將「助教授」的頭銜改為「准教授」(副教授)至今。