前些日子,帝展審查員大久保(作次郎)氏舉辦了個展,展出其在帝展與槐樹社的出品畫,共一百四十一件作品,市民們從中獲益良多。而這次又能接觸到獨立美術移動展,得以研究並欣賞新的畫風。尤其對於年輕而有前途的藝術家們而言,必定得到了不少創作上的養分,但也可能因此而苦惱不已——我們究竟應該依循何種方針進行創作?什麼是對,什麼是錯?其實,藝術的本質並不難理解,歸根結柢就是作品是否具有作為藝術的生命力。不是短暫的,而是能夠永久地在後世仍具備藝術品價值的,才是真正的藝術。凡是有心的作家,必然都在為此苦心研究。至於那些渴望成為未來偉大藝術家的年輕人,更應該一步一步腳踏實地地進行創作。就像初學者讀《論語》,雖然能讀懂字面,但未必能理解其中深奧的意義。獨立展的諸位能走到今天這一步,從清水氏的作品中也能看出,他們確實已經走過相當的歷程。最終,必須是自己提煉出的東西,絕不能忘記這一點。

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  稍微偏離了一點主題,但總之,獨立展再次來到臺灣,對我們而言收穫頗多。他們的構思、構圖、色彩、技巧,無一不是我們研究的寶貴資料。油畫已不再只是西洋的油畫,而正逐漸轉化為東洋的油畫,這點我們絕不能忽視。完全照搬西洋真正價值的畫作,已無容身之處。

  大家都在急切地思索這個問題。例如川口氏的《牡丹花園》,其中便顯示出相當濃厚的東洋畫影響。野獸派(Fauvisme)的影響已逐漸淡化,而超現實主義(surréalisme)也漸漸超越了超現實,變得愈來愈像一種現實主義式的寫實主義,不是嗎?(完)


第三囘獨立 美術展を見て (下)  錦鴻生(譯註1)

先般帝展審査員大久保氏の個展で同氏が帝展槐樹社の出品画等百四十一点を展覧した事によつて市民達は多いに得る処があつたが今度又独立移動展に接することによつて新画風を研究し鑑賞することが出来た。若き未来ある芸術家達は多いに滋養になつたらう。併し其お蔭で大いに悩んだかも知れない――吾等は如何なる方針によつて進むべきか。何れが是で何れが非か?芸術の本質論理難しいものはない。要するに芸術として生命があるか無いかと云ふ問題に帰着する。一時的でなしに永久に後世に迄芸術品として価値あるものが芸術である斯いふ事は心ある作家は誰もが苦心して研究してゐるはずである。併し若き未来の大芸術家たらんとするものは矢張り歩一歩と進んで行く事が大事であらう初学者が論語を読んだ処で其字が読めても其奥妙な意味が解るものでない。独立展の諸氏が此処迄来たのも清水氏の作を見ても解る様に彼等には相当に経路を踏んで来てゐる。煎じつめた自分のものでなければならぬことを忘れてはならない

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 話が外れて了つたが兎に角独立展の再度の来臺によつて我等は益する処が多かつた彼等の着想、構図、色彩、技巧何一つとして吾等の研究資料にならないものはない最早西洋の油画でなくて東洋の油画に変りつゝあることを見落してはならない何から何迄西洋の真価は御免だ。

 と皆があせつてゐる、川口氏作『牡丹花園』等の様にそこには相当に東洋画の影響が出てゐます。ホービズムが段々と影響が薄らいて来てゐるしシユールレアリズムも段々超しシユール、レアリズムしたレアリズム的になつて来たではないか(終り)

—原載《臺灣新民報》,1933-6-9(6版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 應為臺灣新民報社美術記者林錦鴻。