鹽月桃甫

  衷心祝福臺展意義重大的誕生。

  在此除了希望入選作家諸君能更加自覺奮發向上,同時也敦促落選的出品者諸君能給予自己一個明智的反省。

  藝術作品是時代思潮的反映,至純至高的作品則能引導民眾走向時代文化的極致發展,此外,地理條件也會孕育具有該國特色的藝術。

  臺展將以上這些意義拉至高峰,在未來是可以期待的。而這點,有賴於作家的精進以及一般民眾明智的觀照與批評。應該唾棄常套因襲的枯竭作品,推賞生氣盎然、以真正的獨創為目標的純真作品,這點當然也毋庸贅言。

  如若只為了討好一部分的俗眼而套用或沿襲膚淺的形式,這類的作品相信對我們的臺展來說,不是一個可喜的發展方向。尤其是誠心希望臺展以其特色成長的有識之士,與其耽溺於淺薄狹隘的小趣味,不如極力後援具特色的南方藝術,使其得到發育與成長,才是明智之舉。

  記錄事實的繪畫,任誰都能理解,但畫中表現若缺乏情緒交織的生命,則不具有作為繪畫藝術的任何價值。

  墮於技術者,尚能滿足一般俗眼,因為那裡還存在著所謂的骨法的基調,然而,有法亦不可,無法亦不可,有法之極致歸諸於無法,才是最高的境界。相信唯有到達不繪其形只寫其氣韻之域,並常以驚異之眼觀看大自然、感知神秘的黙示、追求特立不羈的表現者,才能促使具有存在意義的藝術殿堂得以興建,生動獨特的藝術得以誕生,該時代的或者該地方的藝術,得以成立其確實而穩定的地位。

  概觀第一回臺展的洋畫(西洋畫),雖有二、三個例外,但一般而言都展現了朝向某種目標的明確企圖心。充滿年輕活力之處,足以令人對臺展的前途,有十二萬分的期待,實可喜可賀。

  陳植棋、顏水龍、張秋海、兒島榮、楊佐三郎、陳澄波、廖繼春、郭柏川、古川義光諸君的作品,之所以可以讓觀眾安心鑑賞,乃是因為在骨法的修練上累積了相當的研究。

  蒲田丈夫、鉅鹿義明、倉岡彥助、船曳定雄、新井英雄、蔭山泰敏諸氏之作,可以看到苦心創作的痕跡以及想要表現某些東西的熱情,可惜骨法的修練不足,以致於效果不彰。

  稻垣龍一〈靜物〉,值得注目。相較於多數的靜物畫都汲汲於傳達事實,此幅畫則賦予了聰明的解釋,不過,作者的意圖還需累積更多的研究,否則將無法明確地表達出來。

  超越技巧、將純真的生活直接移植至畫面上的,有素木洋一和濱武蓉子的作品。前者是紅顏的少年,後者是令人愛憐的少女,與其他作品相比,此二人的作品呈現不同的特色。

  水彩畫的作者諸君,希望能有更明智的反省。比油畫更容易在技巧上受到約束的水彩畫,稍有不慎,便會陷入師法傳承的陳規陋習,忘了去發掘自己本身才能創造的獨自境地,讓作畫一事僅止於工作的層次。

  此外,整體看來,臺展作品的色彩感覺有生硬之處。在臺灣這個綠之國、光之島的生活者,若只受感官刺激的事實左右,則會止步於皮相的官能嘗試,離創作至純至高的藝術,遠矣。

  最後,在與作家諸君以及觀眾諸君一起期待臺展的健康發展之餘,寫成了此篇。

(文責在記者)


臺展洋画概評

塩月桃甫

 臺展の意義ある誕生を衷心より祝福する。

 入選作家諸君に一層自覚ある奮発を希望すると同時に、選に泄れた出品者諸君に賢明なる反省を促す次第である。

 芸術作品が時代思潮の反映であり、又至純至高なる作品が、大衆を時代文化の向上発展へ導く……と共に地理的条件がその国の特性ある芸術を生む。

 臺展が是等の意義をも高潮するは将来を期すべきである。而して、それは、作家の精進と、一般民衆の賢明なる観照と批評とに俟たねばならぬ。常套因襲の涸渇したる作品を却け、生気汪溢、真に独創を目標とする、純真なる作品を推奨すべきことは、もとより、論を俟たざるところである。

 徒らに一部の俗眼に媚び、皮膚なる形式を套襲する如きことは、吾々の臺展のためには喜ぶべからざる方向なりと信ずる。殊に真に臺展の特色ある成長を望む有識の人々は浅薄狭量の小趣味に捉はれず、特色ある南方芸術を発育成長させるために聡明なる後援を切望するものである。

 事実を録するの絵画は、何人にも解せられる。しかし情緒と交通する生命を表現せざるものは、絵画芸術としては何等の価値を有せざるものである。

 技術に堕するも尚俗眼を満足させ得るそこに所謂骨法の基調が存するが、法あるも不可、法なきも不可、究極は有法の極、無法に帰するの境地、生形を画かずして生気を写する域に到達し、常に驚異の眼を以て大自然を見つめ、神秘の黙示を感知し、不覊特立の表現を希ふ者によつてこそ、意義ある芸術の殿堂は築かれ、生彩異色の芸術は生れ、その時代の……又はその地方の……芸術が確固たる地位を形成する所以であると信ずる。

 第一回臺展の洋画を通覧するに、二三の例外はあるとしても、一般にみな悉くある目標にのぴんとする芽生えの意気を示す、若々しさに漲つてゐることは、前途の期待を光輝あらしむるに十分であるのは何よりも喜ばしい事実である。

 陳植棋、顔水龍、張秋海、児島栄、楊佐三郎、陳澄波、廖継春、郭柏川、古川義光諸君の作品が観衆に安心して見せるのは骨法の修練に相当の研究を積んだことを思はせる。

 蒲田丈夫、鉅鹿義明、倉岡彦助、船曳定雄、新井英雄、蔭山泰敏の諸氏の作が苦心の跡と何ものかを表現せんとする熱とを見せてはゐるが、惜しむべし、骨法の用意が不足してゐるために効果がそれほどに報ひられない。

 稲垣龍一の静物は注目に値する。多くの静物が事実伝達に腐心してゐるに比べて、聡明な解釈を与へてゐるが、今一段の研究をつまなければ作者のねらひが明確に表はれて来ない。

 技巧を超越し、純真なる生活をそのまゝ画面に植えたものに、素木洋一と浜武蓉子とがある。前者は紅顔の少年、後者は可憐の少女、他の作品に比し、特に別個の特色を見せてゐる。

 水彩画の作者諸君は一層賢明なる反省を望む、油絵に比し技巧上の約束に捉はれ易い水彩画に於ては稍もすれば、師法伝承の套襲に奪はれ、自分自身にのみ許されたる独別の境地を見出す事を忘れては、単なる仕事に終るであらふ。

 尚ほ全体を通じて色彩感覚の生硬なことである。臺灣の緑の国光の島に生活する者が、覚為に刺激されたる事実にのみ引きずられては、皮想なる官能打診に終り、至純至高の芸術を作ることゝは縁が遠くなる。

 作家諸君竝に観照者諸君と共に、臺展の健康なる発育を望むのあまり、敢て此の稿を作る次第である。

(文責在記者)

—原載《臺灣時報》,1927-11,頁21-22

(辨識、翻譯/李淑珠)