去年舉辦第一回美術展覽會的臺展,今年也決定繼續舉辦,時間是自十月二十七日起十天,會場在臺北市樺山小學校。而且這次聽說不會像去年一樣,勉強□□來徵集作品。去年為此雖號召了不少件數,但不僅沒什麼大作出現,也上演了好幾齣悲喜劇。對市民而言,代作(代筆)騷動現在也仍記憶猶新。

  今年採用的策略是讓作家主動出品自信之作,比起件數,更重視的是品質。這點就美術展覽會的本質來看,是再理所當然不過了。再者,也預計從帝國美術院招聘西洋畫及日本畫的大師各一名擔任審查委員來進行公正嚴謹的鑑查,據說目前正委託福原(鐐二郎)美術院長挑選人選。美術展要有權威性,由具有權威的大師進行審查,是理所當然,然而,限定日本畫、西洋畫各一名,並不合乎審查員的流儀(作派),此外,當這些大師不理解臺灣的風土、藝術時,反而會導致不好的結果,不是嗎?

  隨著出品的截止日期愈來愈逼近,作家們也明顯忙得不可開交,吾人的希望則是他們的畫作能夠呈現地方色彩,否則臺灣每年只要借一些帝展(帝國美術展覽會)的作品展覽即可。之所以會有帝展、二科展(二科美術展覽會)、春陽展(春陽美術展覽會),正是因為它們各有各的特色使然。


臺灣美術展 来月廿七日開催

 昨年に第一回の美術展覧会を開催し臺展は、今年も継続して開催する事に定り、十月二十七日から十日間、臺北市樺山小学校でやる事に決つた。今回は昨年見たやうに、無理に□□て狩り集める事をしないさうだ。去年は此の為に随分集つた代りに、さう大作も集らなかつたし、幾多の悲喜劇を演じた。代作騒は今でも尚市民の脳裏に残つてゐる。

 今年は自発的に自信ある作を出させる事にして、数よりも質で行く事にしたといふ。美術展覧会の本来の性質からさうあるのが当然だ。更に帝国美術院から、西洋画及日本画の大家を審査委員として一人宛招聘して厳重な鑑査をする事になり、目下福原美術院長に人選を任せて居ると聞く。美術展に権威あらしめるには、権威ある大家の審査に待つ事は当然である。所が日本画、西洋画共に一人宛の限定は、審査員の流儀に合はず、風土芸術に理解ない時は、却つて悪結果を残す事はないか。

 期日の切迫するにつれて、作者の多忙さが目に見えて来る、吾人の希望は地方色を出せといふ事である。さもなければ、帝展の作品を毎年臺灣から拝借すればよいのだ。帝展あり、二科展あり、春陽展あるのは、全くそれぞれ毛色を異にするものがあるからだ。

—原載《臺灣民報》,1928-09-09(12版)

(辨識、翻譯/李淑珠)