有鑑於本島(臺灣)美術的急遽普及與發展,臺北在住的有志之士,即現任臺展幹事的諸氏,研擬了美術展覽會

舉辦之計劃 ,曾在大正十五年十二月左右,聚會數次,計畫一個大型且以常設方式舉辦的美術展覽會,同時也向當局徵詢意見,計畫順利往實現的方向前進,然而,此計畫一傳入總督府當局耳中,對於提升原本在精神層面欠缺慰藉的本島文化,舉辦這種展覽會將是最合時宜的活動,後藤(文夫)長官等人皆非常贊同,表示希望這個展覽會務必在官方這邊的主辦之下盛大舉辦。於是,這群有志之士便與當時的內務局長木下信、文書課長生駒高長等人再三聚會討論計畫的細節,終於在同年四月,將

 舉辦的時間 訂於大正十六年,即昭和二年(1927)的暑假,並決定由臺灣教育會主辦以及在臺北舉辦。之後石黑(英彥)局長就任,將會期變更為秋天,進行更為具體的準備工作,即這次舉辦的第一回美術展。如此,昭和二年二月,臺灣教育會在昭和二年度的預算上增列了美術展覽會的舉辦經費。同年四月決定第一回以後的舉辦,也都由教育會來主辦,同日也決定了評議員、幹事、書記的委任名單。至此,臺展的陣容堂堂問世。之後,相關事務順利進行,五月三日召開幹事會,討論出品勸誘、宣傳、入場費、參考品、閉幕式、地方幹事的設置、審查相關工作等等,決定了

 大致的細節 。五月七日委託各州教育課長及各廳庶務課長擔任地方幹事,此外,因作家名簿已收集齊全,故於今月十六日郵寄出品勸誘狀給作家們,其中,特別針對中等學校教員,寄發了無鑑查(免審查)資格的通知。七月七日重新委任評議員二十一名,同日在長官官邸招待評議員、幹事全員。八日在鐵道旅館招待作家及其他關係者

 百二十餘名 ,召開懇談會。八月十八日決定商借文部省、美術學校(譯註1)等收藏的大師級的作品,委託後藤長官負責斡旋。九月八日召開幹事會,決定今後的事務分擔,並依此製作各負責單位的執行預算。同月十九日委託各地方廳及交通局鐵道部張貼宣傳海報。同月三十日修改規定,設置會長一職,同日決定審查委員長及審查委員。十月四日公布幹部名單。如此,準備全部就緒,十月十日開始出品

作品的受理 ,同月十四日下午四點受理截止,總件數為東洋畫百七十五件、西洋畫達四百七十五件。同月十五日商借交涉中的參考品抵臺,同日鑑查開始。同月二十一日發表入選作品。同月二十五日完成作品的陳列。同月二十六日上午幹事會於會場召開,進行展前檢查,同日下午邀請報章雜誌記者預覽作品。二十七日上午九點舉行盛大的開幕式,下午為招待日。同月二十八日起,終於開放給一般民眾參觀。


臺灣美術展 が生れ出る迄の經緯

本島美術の急遽な普及発達に鑑み臺北在住の有志で現に臺展の幹事になつてゐる諸氏は美術展覧会の

開催を計画 し大正十五年一二月の頃数次会合して常設の一大美術展覧会を開く計画を樹て当局の意見をも糺し着々実現に向つて進んでゐたところ此の計画を督府当局が耳にし、元来精神的方面の慰安に欠けてゐる本島文化の向上のためこの種の展覧会を開くことは最も機宜に適した催といふので後藤長官初め非常に賛意を表し是非官庁側主催の下に華々しく開催したいといふ意向を示したそこで有志は当時の木下内務局長生駒文書課長等と屡々協議を重ね更に案を練り遂に同年四月に至り

 開設の期を 大正十六年(昭和二年)の夏中休暇中と定め臺灣教育会主催の下に臺北に於て開催することに決定した、其の後石黒局長着任し会期を秋に変更し更に具体的に準備を進めたのが即ち今回開催された第一回美術展なのである、かくて昭和二年二月臺灣教育会は昭和二年度予算に美術展覧会開催の経費を計上し同四月同教育会は其の主催で度々開設することを決定し同日評議員、幹事、書記を委嘱した、これで臺展の陣容は堂々と産れ出たのであつた、爾来同事務は着々進み五月三日幹事会を開催し出品勧誘、宣伝、入場料、参考品、閉会式、地方幹事設置、審査に関すること等を協議し

 大体具体案 を決定して五月七日各州教育課長及各庁庶務課長に地方幹事を委嘱して作家名簿が出揃つたので今月十六日作家に対し出品勧誘状を発し就中中等教員に対して無鑑査の旨通告した、七月七日新に評議員二十一名を委嘱し同日評議員、幹事全部を長官官邸に招待し翌八日鉄道ホテルに作家其の他関係者

 百二十余名 を招待して懇談会を開催、八月十八日文部省、美術学校等所蔵に係る大家の作品借受斡旋方を後藤長官に依頼し九月八日幹事会を開いて今後の事務分担を定め之に基き各係の実行予算を作製同月十九日ポスターの掲示方を各地方庁及交通局鉄道部へ依頼同月三十日規定を改正して会長を置き同日審査委員長及審査委員を決定し十月四日役員全部を公表したかくて総べての準備は整ひ十月十日出品

作品の受付 を開始し同月十四日午後四時受付を締切る総数東洋画百七十五点、西洋画四百七十五点に達した、同月十五日借受け交渉中の参考品到着し同日鑑査を開始、同月二十一日入選作品を発表、同月二十五日陳列を終る同月二十六日午前幹事会を会場に開催して下検分を行ひ同日午後新聞雑誌記者を招いで下見をなし二十七日午前九時盛大な開会式を挙げ午後招待日としいよいよ同月二十八日から一般に公開したのである

—原載《臺灣日日新報》,1927-10-28(日刊4版)

(辨識、翻譯/李淑珠)

註釋

譯註1. 指的是東京美術學校(今東京藝術大學)。